アサヒ死ンブン

死骸ブログ

古典風

こないだひとと電話で話していたときに、主に書籍についての「"古典"のもつ意味」みたいな話をしていろいろ語ったのだけど、その後ちょっと考えてみたことをメモがわりに書いておく。読書会の時などに語れるかもしれない。

"古典"という言葉を使ったときに意味するところとして思い浮ぶことがみっつ。もっといろいろ考えられるのだろうけども、とりあえず。
ついでにそれぞれの意味における「古典を学ぶ・読むことの意味はなんだろうか?」という問いへの回答的なものも考えた。

 

その①
たんに成立年代が古いものを指して古典文学だとか古典の作品だというもの。
ただし"古典"という言葉から真っ先にイメージされる古い作品、たとえば「万葉集」や「源氏物語」やそのほかのようなものは、成立して以来おおくのひとに読み継がれてきたなかで注釈がつけられたり解釈が与えられたりし続けられているものだ。それら注釈がなきゃいまのようにお手軽に古典作品に親しむことはできない。(←読みかじったようなことを書いている)なのでこの意味でいう古典はその作品単体を指すものではなく、作品への積み重ねを包括した総体としたものだと言えるのだろう。
日本語のくずし字や古典文法がそれなりに知識がなきゃ読めないのは当たり前だし、古典英語で書かれた「ベオウルフ」はいまの英語の面影がなくって(←勉強すりゃわかるのかもだが)マジでなにがなんだかわからなかった。

で、この場合の「古典を読む意味」的なものは、めっちゃむかしに成立した書籍とそれを読み継いだ人々の考えたことをトレースできるということ。さらにそこから新しい読み方を見出していけるということ、もある。「源氏物語」は谷崎潤一郎与謝野晶子瀬戸内寂聴などなど多くの作家が翻訳しているけど、それはその時代その時点における現代的なまなざしを持った再解釈をしているのだと言えるのだろう。
まぁ僕は源氏の原典も訳も全然読んでないんだけどね。江戸時代に出たパロディ本、柳亭種彦の「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」は読んだわ。ろくに原典を読んでないのに偉そうなこと言ってると怒られそうだよな。

 

その②
ある価値観の転換が起こったときに、転換以前の価値観のもとで書かれたようなもの。戦前の天皇をトップに置いた国家観で書かれたものはたった100年前のものでも古くせえなって思う。100年という時の隔たりが長いか短いかはひとによって違うだろうけど、①で言ってる意味の古典作品に比べたら圧倒的に新しいだろう。
大正時代に書かれた厨川白村が自由恋愛の素晴らしさを説いた本を読むと、当時のひとは現代だと当たり前のこんなことで大騒ぎしていたんだなって感じる。実際、自由恋愛的な考えが広まった前後には厨川白村はまったく読まれなくなっちゃったそうだ。僕はたまたま読んだだけなんだが。

この意味でいう古典を読む意味はわかりやすい、価値観が転倒する前の価値観を知ることができるということか。"セクハラ"という言葉がなかった時代のことを考えるのに、想像力だけでは限界があるわけだ。
今後延命治療や生命維持のテクノロジーが発達したら死生観も変わりうるだろうし、そうなると古典哲学や宗教的な経典の解釈も変わってくるかもしれない。そういうのもここに含まれるかもしれない。

 

その③
ある研究分野の始祖的な位置付けの本を古典と読んでいるようなもの。
ナショナリズム研究の先駆けとして有名なベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」は1983年とつい最近出たものだけど、のちにここを原点としてナショナリズムについて論じた本がたくさん出たこともあって古典のような扱いをされている。というような感じですかね。
これは古典を学ぶ意味というか、その分野の先行文献を知るということになりますかね。

 


書いててめんどくなってきたのでもうやめるけど、どれもきっと「古典(作品)」が単体としてあるわけじゃないんだよな。だから作品単位でこれを読む意味は?みたいなこと考えても意味がないというか。研究するわけでもないなら、そんな意味を問うくらいなら好き嫌いで判断してイヤなら読むなよとしか言えないというか。