アサヒ死ンブン

死骸ブログ

インターネットが滅亡して三千世界が終わるまで君のことを愛すよ

今年もいちねんを振り返って総括してみると「完全にダメ」で、楽しい毎日、豊かな生活、生きている喜び、幸せ、そういったものからほど遠い人生だった。なにひとつ得られなかった。なんだか毎日ずっと忙しくって、ほんとに忙しかったのかよくわからないが、なにかしなきゃ、なにかしなきゃと焦りに追われ、ふと落ち着いてものごとを思惟する時間は百貨店のエスカレータに乗る時くらいしかなかった。なにかしなきゃの焦燥に追われて行ったなかには冒頭に列挙したものを得るための行動はなかったわけだが。なにをしても得られないんだよな。みんな楽しそうに生きてるのに、同じようになれない。十年前からずっと同じようなことを不満に思っていた気がするし、二十年前もそうだった気がするし、もしかすると世界は五分前に誕生したばかりなので五分しか思っていないのかもしれない。とにかく、生きていてひとつも楽しくないです。こういうのを人生終わってるっていうのかな?

 

とはいえ、生きていて楽しくないと思っていることはすなわちいますぐ死にたいという欲動を意味するわけではないし、というか、人並みを求めてもムダだということは思い知ってるので諦めておりいまさらどうでもいい、でも、でも、でも、普通に生きてきたはずなのに上手くいかないのはなにか原因があるはずだ、なにが悪いのかな?ってことはちょくちょく考えているんだよ。なにが悪いか?

 

結論は、やっぱ、インターネットが悪い。

 

インターネットであらゆるものが(見かけのうえでは)フラットに繋がっているので(大嘘だよな)みんながクリエイターになろうとして必死になって自己発露にばかりに腐心して、人間関係に摩擦を生むわ、たいして良くないものがイイネと言われるわ(インターネットにおいてひとは自分がいいと思ったものではなく、人々がいいと思うだろうものにイイネをつける、ケインズの「美人投票」の理屈が働くため)、そのくせみんな僕のことは無視するわ、みんな僕のことを好きにならないわ、電車のなかではお客様同士のトラブルが発生して電車が止まる(これを書いてる時に起きた)。
さらにいうと、インターネットで自分のことを出していけるようになったぶん、みんな読むほうが疎かになってると思うのだ。ここでいう読むは文字を追う、という意味ではない。文字を追うことは猫にでもできる。読んだ文字のあらわすことを、文脈を、行間を、書かれていないことを読む。それができないというか、文字に書かれていることしか読まないというべきか。だから、みんな書かれた文字の揚げ足をとってとられて諍い炎上になる。
だから、よい読者にならなきゃいけないな。書物でもWEBメディアの記事でも人間関係でも、じっくり読んで、読んだ先のものをあらゆる文脈に結びつけられるようにならなきゃいけない。生命を削っていろんな本を読んだり映画を観たりしているおかげで、すこしずつできるようになってきた。職場でもそれ以外でも人間関係はわりと円滑になってきた。マジマジのマジで。

『テレビを消しなさい』というタイトルのマンガがあるけれど(まだ読んでいない)みんなが必要なのはインターネットを消すことだよな。さらにいうと嫌いな奴を消すことかもしれない。「金を払って嫌いな上司に酒を注がなければならない会社の忘年会が嫌だ」という嘆きは完全に間違っていて、忘年会は爆笑するためにあるのだしウザい上司は殺すためにいるのだから、ウジウジしてないでどんどん殺して爆笑するべきなんだよ。

 

こういう暴力的な発想になるのも、やはり、インターネットが悪い。

 

お死まい。