アサヒ死ンブン

死骸ブログ

ゴミの日

「文章力」ってなんなんでしょうね。小説でもブログでもなんでもいい、この世にはたくさんのものが書かれていて、そのなかの一部の書かれたものは非常にウケてたくさんの読者がいるってのは言うまでもなく考えてみればスゲエことですよ。ひとは他人の考えてることなんて知りたくないはずなのに(もしかして他人の考えてることを知りたくないと思っているのは僕だけかもしれないが?)それをわざわざ表出してかたちにされたものを読んでやろうって多くの人が思うんだから、恐ろしいこった。
酒場でもツイッターでもどこでも「仕事論」が語られているけど、サラリーマンにもっとも大事なスキルのひとつは文章力だと思っているよ。僕は小説や詩歌といった創造的な文章は書けないけど、ビジネス文章力は非常に高いんだ。つっても紋切り型のビジネス文書ルールのことじゃないぞ。正直に書いたら「言い訳するな!」と言われるようなことを、たくみにストーリーを作って説得力を持たせる、いわば脚本作成能力のことを言っている。むかし、女と遊びほうけて会社をサボりまくったときも見事に「切実な事由」のストーリーを作り上げて上司にいっさい疑われることなく乗り切ったよ。「お疲れさまです。アサヒです。すみません、出勤遅れます。ウチのツレがマジでマジがマジヤバなんで家を出られなくて、病院の方向に行ってから出社します。○○は金曜のうちに××に引き継いだんで大丈夫と思います。水曜までに資料それろえられるんでマジ大丈夫です。ヨロ。お願いします。」みたいなメールいっぽんでなんとかなった。実際はもっと切迫感のある文体で、臨場感溢れる誤字脱字を交えた自然主義文学で、冷静に考えると「急いでるんでコピー先にとらせてください!」くらい理由になっていない内容だけどストーリーにはなっている文面だったんですよ。日頃からバカみたいに小説ばっか読んでるからごく自然に筋書きを立てて微妙な言い回しや語彙の選択ができたってことなんだな。サンキュー、文学。真面目に文学やってる奴に刺されそうだけど、僕にとって文学とやらが役に立つのって、言い訳をビジネス文書に上手く変換できるときだけだから。それ以外になにがあんの?イキリ文学野郎はこの世に生きててなんの意味があんの?ってかんじ。
読者に向けて書けているのがスゴイなって話で、読者のことを考えずに自我をおもてに出してるだけの文章はゴミだと思ってるんだけどね。書いてる本人は称して曰く「オレが書きたいこと」だそうだけど、それはほかの誰にとっても「目にしたくないもの」かもしれないという想像を、なぜ持てないのだろうか?まぁこの記事もゴミの部類だけど、ゴミを出す練習をしておかないと"ゴミの日"にゴミを出すことができないから、ゴミをまとめる感覚で書いているんだよな。

神の道に背きし錬金術師滅ぶべし

もう何年も前のこと、職場で精神に異常をきたす寸前まで追い詰められて退職したときのメモが出てきたので、てにをは・改行を改めて言葉を補ってここに載せることにした。当時の精神状態が垣間見れて非常におもしろい。僕は仕事で精神を痛めるくらいならとっとと辞めればいい主義者だし、精神を痛めるきっかけもひとそれぞれだから、別離百態、ひとそれぞれ百態の退職のかたちがあると思っている。そんな百態のうちのひとつ、もう一歩頑張ってムリをしていたらまじで人生を棒に振ってたかもしれない、そんなときに書かれた読み物だと思って欲しい。

仕事を辞めることにした。昨夜職場からこっそり私物・荷物は引き払い、入館証は置いて帰った。お疲れ様でした、またあした、と挨拶した。この時点で"明日"はないわけだが。ザマァみろ。今日は体調不良で病院に行くという連絡をいれた。明日、退職届を送る。さよならだけが人生ならば、人生なんていりません。激務だったわけではない。が、黒い労働環境ってのは必ずしも労働の強度と相関関係があるわけではない。仕事を放ってきてまま丸投げの放りっぱなし、客との調整もしてくれねえ、たまに思い出したように報告しろというがどういうフォーマットでなにを出せばいいのか、聞いてないことがたくさん降ってくるけど要員もくれない、どうにもコミュニケーション取ってくれる気がないのだね。健康保険証は最後までもらえなかった。このようにないがしろにされては来月死んでしまいそうだと気づいたので、僕は自分が死ぬことなく、彼らに死んでもらうことにしました。人のことを殺そうとしたら、返り討ちに遭うことだってあるわな。同じ理屈だと思う。休日は昼過ぎまで起きられない、ラーメンもミラノサンドも味がしない、これはやべえなって思っていたのに加えて、募集要項に書いている嘘イツワリが心底イヤになった。ひとつひとつくわしく説明するのは面倒なので端折るけど、死にたくない、否、これ以上不愉快な思いしたくないので、9回裏のサヨナラ満塁ホームランだよ。僕は冷血冷酷クールビズな人間なので、慈悲はない。
ヤフー知恵袋などにおいて、「仕事をバックレようかな」と相談をしているひとに対して、アンサー欄で「バックレは人としてオカシイ」「社会人としてありえない」「子供じゃないんだから」なんて正論(爆笑)が散見されるわけだな。回答しているおまえら、ほかの質問にはトンチンカンなアンサーして"ヤフー知恵遅れ"だなんて言われてんのに、労働関係においてのみは強気マンになれるんだな。不思議だよ。強気の社畜マンは、労働においてあるべき清き労働者の姿を描くことはお得意なようだが、それ以外のことについてはゴミクズみたいな知識しかないってことがまるわかりだね。僕はマルクスのほうが好きなので、プロレタリアートの権利全開でいく。それは果たして人としてオカシイだろうか。連中は自分がプロレタリアだと気づいていないのだろうかね。僕よりもマルクス主義に詳しくないやつは黙ってろってかんじだよね。つっても僕も学生時代に「資本論」の岩波文庫1冊目の途中で挫折した雑魚なんだけど。次に読むのは資本論の解説本にしよう。僕は社会適合・社会不適合という言葉が嫌いでね。無職のあいだにこの言葉を否定する理論を組み立てようと思うんだよね。バックレの言い訳ですよ。精神的支柱にせんとしているだけです。戦争に向かう国が自国を正当化する理屈をこねるのと同じこと。まず、「社会適合」しているなんてのは、真面目な社会人たち(爆笑)からのカスみたいな承認を受けているだけの状態にすぎないものだ。世のなかの多くの人間は、会社においてチンカス承認をしあって生きている。さらに、承認されることを強要しする。承認されるべきだと脅迫観念を与える。お互い承認しあう世界がいごこちいいからだ。僕はそんなチンカスのためにシンドイ思いをするのはバカバカしくなった。だから逆に社会不適合というのはつまり、社会で真面目に働くしか能のないチンカスから承認を受けられていない状態である、にすぎない。世の大多数がチンカスだから、チンカスから認められないと不安になる。ってだけのこと。ここで冷静に考えてほしいんだが、チンカスに承認されてなにが嬉しいんだ?自分が社会不適合ではないかと悩む人たちは、一度まわりの環境を見回して、周りのやつらみんなから承認されたいかどうか考えてもらいたい。おそらくそのなかの多くは、認められなくても生きるになんら差し支えのないチンカスだ。誰からも認めらず、こちらも誰も認める気が起きなければ、社会適合も不適合もないだろう。って内容で本を書いたら売れますかね?
働きたないって言ってんじゃないんだよ。(働きたくないけど)前回仕事を辞めた時はもう働かないゾと思って辞めたものだが、今回はまともなところでまともな仕事がしたくてたまらない。実のところ履歴書も送ったりしてるので、ノープランで辞めるというわけではないのだ。そこがダメでほかにも受けてみたいとこがいろいろある。履歴書を書く筆は前回よりずっと早く進んだ。「こんなこと思ってるのでこんな仕事がしたいんです!」ってサクサク書けるの、モチベーションの差なのだな。気持ちが落ちつかないときはだらだら書き続けるのがいいね。まとまったこと書く集中力がいまないのだけど、あまりツイッターにネガティヴなこと書き散らしてもウザってえだろうし。

 

翌日は朝から雨が降っていたけれど、槍が振ろうとも僕の退職届は止まらない。二郎系ラーメンのトッピングみたいにオプションマシマシの郵便を送ってきた。伝わるかな、僕の"本気"が。僕は高校生の時に法律バトルまんが『カバチタレ』を読んで以来、いつか内容証明郵便を送ってみたいと思っていたのだ。いま満たされる好奇心のナイフがグサリ心臓をひと突きする。アイホン機内モードにしてWiFiを使っているので電話はかかってこない。「生きてますか?(笑)」ってふざけたメールは来ていた。これからおまえが死ぬんだよ。ずっと行きたいと思っていた元職場のすぐ近くの古書店に行ってきた。元職場のみんな、まさか裏切り者がこんな近くをうろうろしてるとは夢にも思わないだろう。よく「この顔にピンときたら110番!」って犯罪者の顔写真入りポスター貼ってあるけど、あいつらわりとそこらへんにいるような気がするんだよね。中核派の大坂正明は捕まっていたけどな。精神に歪みが生じてしまいそうなので退職を決意してからお酒をぜんぜん飲んでいなかったんだけど、そろそろEよね!

猫の惑星

猫と戦い続けている。夜中に飼い猫が部屋を荒らすたびに目を覚ましている。猫はおなかがすきさえすると、深夜明け方時間かまわず部屋を縦横に走り回り、積んでいるものを崩す、ビニールを引き裂く、布団を剥ぐ、念仏を唱える、ルンバを踊る、薬缶をひっくり返す、などの方法を取って飼い主を起こし、ごはんをもらうまでこれらの行動をやめない。ここは猫の支配する猫の惑星なのだから仕方がない。向こうの方が主人だと思い込んでいるのだ。猫にコトの善悪を教えることなどできない。きつく叱れば「これをしたら怒られる」ということは多少は学ぶけれど、それは人間でいうところの「社会規範」を学ぶということでしかない。善悪そのものを考えたり倫理的な判断のもとに行動をとる生命体ではないんだ。善悪の上に「猫自身」のようなメタ意識があるのだろう。倫理学に「猫ならば?」という変数を持ち込めば新たな地平が見られるのかもしれない。禅の公案の改変で「猫に還って仏性有りや無しや」ってとこですかね。ツイッターで、こいつは精神に異常をきたしているのではないか?と言いたくなる常識を逸脱したツイート・リプライをしているアカウントの多くが猫アイコンであることは周知のことと思う。統計的に実証されてないだろうけど猫アイコンのヘイト野郎とか多いし。連中は顔を猫に仮託することで善悪の倫理を棚上げしてるつもりなのだろうかね?善悪を措いて好き勝手振る舞えるのは猫だから許されるのであって、人間ではないと思うんだがな。猫の惑星に生きていることを思い出してほしい。猫が顔の上であくびをした。わ、臭え。惑星だけに。

スターゲイザーガンダム

こんにちわ。
みんな頑張ってますか?
僕はまいにちまいにち頑張ってるはずなのに、頑張りがなにひとつ報われません(爆笑)

 

まぁ"頑張り"にも色んな種類があって、たとえば、いくら頑張って夜空の星の数を数えてるひとから「頑張って数え終わりました!」とか報告されても「で?それで??」って感じですよね。とはいえ星の数を数えていたら流れ星に出くわして願った願い事が叶う可能性があるわけだから、一見「で?それで??」と思う頑張りにも意味は生まれてくるのかもしれない。かけた頑張り対効果が低いだけで。ま、生まれないと思うけどね、意味。こういう話をしていると「星を数える余裕のある人間だからそんな傲慢なことを言えるんだ」みたいなお叱りを受けるんですけど(直接言われたことはないので僕の被害妄想かもしれない)相対的に恵まれた生活をしていることと、自分の人生に満足できているかどうかは別の問題だよ。たしかに僕は星を数える余裕はあるかもしれないが、空に顔を向けたいという気持ちにならないんだ。都会は忙しすぎて夜中でも空は眩く、星は見えにくい。あと、視力が低いので見えない。スターゲイザーになれない。幼少のころよりあらゆるひとから「いつかよき理解者が現れるから耐え難きを耐え真面目に生きろよ」とか言われて育ってきたが、いまに至ってそんなものは一瞬たりとも現れなかったのでずっと騙されていたという気持ちが拭えず、なにかを信じるということができずにいるんだよな。世界との窓口がSNSになってしまったのがいけないのかもしれない。ひとが本当はどんな現実を生きているのか、想像できないんだ。

 

↑っていうメモを夜中眠れないときに書いていたのが残っていたんだけど、いったいどういう心理だったんだろうな?
内容は常日頃思ってることだから自分が書いたことは間違い無いんだけど、こんなもの書くより星を数えたほうがマシじゃないかな。

猫は見ていた

先日一月十四日に、なべとびすこさん(@nabelab00)主催の『俺の歌会』という、「他人(自分以外の参加者)が作った短歌を、さも自分が作ったかのように紹介する」という特殊ルールの歌会に行ってきました。
そもそも「歌会」というのは自作の短歌を持って行って評し合う会ですね。通常は参加者が各々持ち寄った歌を名前を明かさずに並べて、評価の高い歌を選んで、語り合うものらしい。まぁ、こんな説明であっているのだろう。

 

なんせ自分以外の人の感性によって詠まれた歌を当日ランダムで渡されるので、どう解釈したか、それをどう面白く話せるかのアドリブ力が試される。緊張感があるけどもゲーム性が高くて楽しい。僕は数々の読書会でろくに読んでいない本についてさも隅々まで読んだかのように語ってきたり*1、やりたくない仕事を躱すため長年の社会人生活で"言い訳"のスキルを培ってきたので、それらを遺憾なく発揮できる機会だった。

 

そして自分の作ったものがどう読まれどう解釈されるか、ドキドキするね。

 

平成が終わる時間にこの世から消えるところを猫は見ていた

 

これは僕が作って持って行った歌なんだけど、良いでしょう?
短歌は素人だけどいろいろ工夫を凝らしたつもりなので、頑張ったポイントを解説したい。が、説明しすぎないほうがよいのかな。

 

平成が終わる時間という明確なタイミングを指定しつつ、この世から消えるという不思議さにつき当たるわけだ。自分が消えるのか?自分のなかの気持ちが消える?自分以外のなにかが消える?なにが消えるのかな?といろいろ思いをよぎったところに、猫は見ていたという終わりがやってきて、やはりなんらかの事象が消える場面があったのだなと振り返る。そして、猫が見ていた「消えたもの」についてもう一度考えてみる。

 

といった、たいそうな歌ではないです。年が変わって一月一日になる瞬間にジャンプして「オレ、年が変わる瞬間地球上にいなかったわ」って言うやつ、小学生のころ同じクラスにいませんでしたか?僕はそれをいまでもやるんだけど、タイミング見計らって飛ぶところを、飼い猫は不思議そうに見ているんだよね。同じことを次にやるタイミングは平成が終わるときだろうな、というところから生まれた歌でした。くだらねえとか言わないでくれたまえ。

これがまぁ「クソですね」とか厳しいことを言われたら凹んでやめていただろうけど、肯定的なコメントをいただけたのでこれを機にこれからもいろいろ作ってみたいな。伊達に毎日バカみたいに本読んでるわけじゃないんだなと思われたい、という気持ちもあるよ。僕はまともに詩作ができるだけの感受性もなく、言葉の響きの面白さを追求する技巧も持ち合わせないので、せめていままで読んできたものに育まれたであろう語彙の選択をもって歌を作るほかない。

*1:課題本はちゃんと読んでますよ、一応

スパイシー

みんな生きてる?
僕は死んでいます。
お金がないと誰とも遊べません。
誰からも顧みられない幽霊なのです。
成仏した〜い(笑笑)
死〜ん

 

ちかごろ、お金持ちをフォローして特定のツイートをRTして当選したらお金がもらえるという、ドストエフスキーの小説にでもでてきそうな遊びが流行っていますね。僕はもちろん目に付いたものをRTしていますが、なかにはこころが繊細なひともたくさんいるらしくって、金持ちの道楽を見て「いらつく」「いやな気持ちになった」「あさましい」だのと、いや〜お前たち、世界の富は数%の金持ちに偏っているという現実を見て見ぬ振りをして自我を保っているくせに(それともまさかそんな現実があることを知らないのか?僕は現実を知りたくないので正確な数字を知らないが?)、あるいは労働基準法違反の超過勤務をして苦しみながら不法なお金をもらうために働くことは我慢はできるのに、運以外の条件のない"払うだけ"の行為は刮目して見たうえで我慢できずにありとあらゆる感想をもち、また、意味付けをするのだな。
"殿のお戯れが始まったわい"くらいの気持ちでいられないんだろうか。暗君の理不尽な上意討ちに対して生命倫理を問うくらい無意味だよ。無駄無駄。金持ちはあらゆることをするし、金の亡者はなんでもするし、お金に群がる人たちは難しいことを考えていないよ。

 

と、かようなぐあいに、なにゆえ今回、いつも「資本主義が打倒されなけれ永遠に彼女ができない」と主張している僕が金持ちを擁護するようなことを書いたかって?

部屋の更新料が払えないんだ。更新料って知ってるか?中世ヨーロッパにおいて人々が高値で取り引きしたスパイスのことじゃないぞ?*1ほかの地域ではどうだか知らないけど、首都圏では賃貸の家に住んでいるとおよそ二年に一度、家賃分を更新料として払わなければならないクソ契約を結ぶんだ。年貢みてえなもんだな。バックレてもいいのかな?
もうすぐ更新の時期なんだが、僕はただでさえ貧乏なところに先月ヤクザな県民税を払わされ、素寒貧。このままでは更新料が払えないので、金持ちのツイートをRTしてお金をもらうほかに生き抜く道はないのである。ゾゾさんのは当たりませんでしたが、ゾゾさん、第2弾第3弾をやってください。100万円なんて言いませんとも。家賃分の7万円でいいんです。あ、家賃に加えて2・3回ほど飲みにも行きたいので8万円くれ。まじで。お願いしました。
【家畜が餌を食うことは家畜自身のよろこびであるからといって、それが資本の再生産過程の一環であることに変わりはない】というのは『資本論』の言葉だったか?それとも聖書か?どっちでもいいんだけど、我々はみずからが精神的に高尚な生き物だとか勘違いをせず、家畜であることを思い知って金持ちをRTするのがよいと思いますよ。そしてお金が当たったら僕にメシでも奢ってください。更新料くれなんて言わない。寿司で構いません。寿司は回っていても結構です。本当によろしくお願いします。

*1:それは"香辛料"だ

古典風

こないだひとと電話で話していたときに、主に書籍についての「"古典"のもつ意味」みたいな話をしていろいろ語ったのだけど、その後ちょっと考えてみたことをメモがわりに書いておく。読書会の時などに語れるかもしれない。

"古典"という言葉を使ったときに意味するところとして思い浮ぶことがみっつ。もっといろいろ考えられるのだろうけども、とりあえず。
ついでにそれぞれの意味における「古典を学ぶ・読むことの意味はなんだろうか?」という問いへの回答的なものも考えた。

 

その①
たんに成立年代が古いものを指して古典文学だとか古典の作品だというもの。
ただし"古典"という言葉から真っ先にイメージされる古い作品、たとえば「万葉集」や「源氏物語」やそのほかのようなものは、成立して以来おおくのひとに読み継がれてきたなかで注釈がつけられたり解釈が与えられたりし続けられているものだ。それら注釈がなきゃいまのようにお手軽に古典作品に親しむことはできない。(←読みかじったようなことを書いている)なのでこの意味でいう古典はその作品単体を指すものではなく、作品への積み重ねを包括した総体としたものだと言えるのだろう。
日本語のくずし字や古典文法がそれなりに知識がなきゃ読めないのは当たり前だし、古典英語で書かれた「ベオウルフ」はいまの英語の面影がなくって(←勉強すりゃわかるのかもだが)マジでなにがなんだかわからなかった。

で、この場合の「古典を読む意味」的なものは、めっちゃむかしに成立した書籍とそれを読み継いだ人々の考えたことをトレースできるということ。さらにそこから新しい読み方を見出していけるということ、もある。「源氏物語」は谷崎潤一郎与謝野晶子瀬戸内寂聴などなど多くの作家が翻訳しているけど、それはその時代その時点における現代的なまなざしを持った再解釈をしているのだと言えるのだろう。
まぁ僕は源氏の原典も訳も全然読んでないんだけどね。江戸時代に出たパロディ本、柳亭種彦の「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」は読んだわ。ろくに原典を読んでないのに偉そうなこと言ってると怒られそうだよな。

 

その②
ある価値観の転換が起こったときに、転換以前の価値観のもとで書かれたようなもの。戦前の天皇をトップに置いた国家観で書かれたものはたった100年前のものでも古くせえなって思う。100年という時の隔たりが長いか短いかはひとによって違うだろうけど、①で言ってる意味の古典作品に比べたら圧倒的に新しいだろう。
大正時代に書かれた厨川白村が自由恋愛の素晴らしさを説いた本を読むと、当時のひとは現代だと当たり前のこんなことで大騒ぎしていたんだなって感じる。実際、自由恋愛的な考えが広まった前後には厨川白村はまったく読まれなくなっちゃったそうだ。僕はたまたま読んだだけなんだが。

この意味でいう古典を読む意味はわかりやすい、価値観が転倒する前の価値観を知ることができるということか。"セクハラ"という言葉がなかった時代のことを考えるのに、想像力だけでは限界があるわけだ。
今後延命治療や生命維持のテクノロジーが発達したら死生観も変わりうるだろうし、そうなると古典哲学や宗教的な経典の解釈も変わってくるかもしれない。そういうのもここに含まれるかもしれない。

 

その③
ある研究分野の始祖的な位置付けの本を古典と読んでいるようなもの。
ナショナリズム研究の先駆けとして有名なベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」は1983年とつい最近出たものだけど、のちにここを原点としてナショナリズムについて論じた本がたくさん出たこともあって古典のような扱いをされている。というような感じですかね。
これは古典を学ぶ意味というか、その分野の先行文献を知るということになりますかね。

 


書いててめんどくなってきたのでもうやめるけど、どれもきっと「古典(作品)」が単体としてあるわけじゃないんだよな。だから作品単位でこれを読む意味は?みたいなこと考えても意味がないというか。研究するわけでもないなら、そんな意味を問うくらいなら好き嫌いで判断してイヤなら読むなよとしか言えないというか。