アサヒ死ンブン

死骸ブログ

死ね

なにかしら突出した才能やひとを惹きつける魅力、そういったものを持ち合わせぬ無能無才の凡俗なる人間は、"政治"ができねば六情の渦巻く人の世で生きてゆけません。ここでいう"政治"とは、蜘蛛の巣のごとき人間関係を上手く張り巡らせる能力、あるいはその蜘蛛の巣の上を踏み外さずトコトコ歩き渡る技術、そういったことを指します。そのような"政治"思想のもとで、僕は長年まぁなんとかやってきたと思います。しかし、政治力を行使することは神経をすり減らすのであります。好きなものを好きだと言うだけで生きられればよかったんだが、それだけでは巣を張るための糸が足りないために、対して好きでもないものまで受け入れたり、果ては嫌いなものまで渋々認めねばならないのです。嫌いなものを認めるにはどうすればいいか。ことあるごとにそいつの悪口を言ってオシマイにできるならばよかった。たとえば悪口を言い合える"党派"があればよかった。僕にはそんな徒党を組む努力ができなくてですね、よくあるイジメの「あいつムカつかね?ハブらね?」などと誘うような、いわゆる"オルグする"ことができないのです。まわりみんな良い人ばかりでね、僕の気に入らないモノに対する気に入らない気持ちを理解してくれない。それはそうだよな。みんなが正しいです。それに、僕はそんなウジムシのような陰口を叩くやり方でなく、嫌いなものは古典の軍記物語のように正面から討ち滅ぼしたかった。が、まぁそんな時代錯誤なことは叶わない。嫌いなものを我慢しすぎて僕はダメになり、国連で席を立った松岡洋右のごとく退出して、"政治"をすることをやめてしまいました。ひとりでいることは死ぬほどつまらないけれど、気持ちはとてもとても楽です。

【読んだ本メモ】上野千鶴子『差異の政治学』(岩波現代文庫)

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性差・人種をはじめ、あらゆる非対称な権力関係から生まれる差別についての論文を収録している。セクシャリティは自然か、ゲイとフェミニズムは共闘できるか、旧優生保護法・中絶の権利をめぐる議論など、多彩な視点のものが収録されているのだけど、堅苦しい論文形式のもので、ひとむかしふたむかし前のものばかりなので、内容がわかりにくものも多かった。とはいえ、この時代にこういうことが問題とされていたのだなと知ることは大きな意義があったように思う。比較的読みやすい「<わたし>のメタ社会学」も収録されている。文学と社会学のアプローチの仕方を比べながら、著者が社会学を行うことの意義を語っている。

 

以下はテキトーなメモ走り書き
・生物学的に決定されている性差をセックス、社会的文化的な学習によって獲得される性差をジェンダーと一般には定義されているが、ジェンダーという概念がどのように定式化されていったか。セックスとジェンダーが別のものだと明らかにされたこと、ジェンダーは自由に変えられるものでなく拘束力が強いものであること。

・「欠性対立」二項対立のうち頂の一方だけが有徴化されること。「非行少年」の反対語が「善行少年」ではなく、「(非行少年でない)ふつうの少年」と言うほかない。「ふつう」とは、その特性を定義することができないような頂のこと。

セクシュアリティが近代の所産であること。余談として「天皇制」が日本近代の政治体制を批判的に呼ぶ用語だったのが、さも由緒ある歴史を持つ概念であるかのような誤認になっている。

・当事者が「誰にも見せたことのない私」を自己なのだみなす傾向がある。身体を通じて個人を管理する権力の技術をフーコーは「生権力」と呼んだ。近代以降、「真理」は「公的領域」から隠されたことがらと同義になり、人々は秘匿された「自己の真実」を「告白」しはじめる。「われわれ」から「わたくし」というものが分離し、「われわれ」に還元がたいものだけを、人々は「個性」や「人格」とみなすようになる。人々が「真の自己」とみなすのは、当事者が「他の誰も知らない私」「誰にも見せたことのない私」と考える自己のこと。

この辺は読んでいてうっすら考えたことだが、個性とは足し算すべき大切なものなの?総体から一般的なものを引き算して残ったものなのか?という方向性の違いがあると思う。引き算的な捉え方の場合、残ったものでポジティブな評価であれば個性と呼び、ネガティブな評価であれば「それはオカシイ」ということになるのだろう。個性を尊重しろとほざくガキは個性そのものの捉え方を考えてみたほうがよいのではないか?おまえが個性だと言っているものが認められるかどうか、たまたま自分の趣味嗜好が世の中の大多数と迎合するかどうかに左右されてるってことなだけなんだな。

・「教養」や「オリジナリティ」に神秘的な意味を与える必要はない。「すでに知られていること」が何かを知ること。それと自分の考えていることがどう違うかを文節する能力をもつこと。「異見」はそのようにして創られる。

 

おしまい。

【読んだ本メモ】大澤めぐみ『6番線に春は来る。そして今日、君はいなくなる。』(角川スニーカー文庫)

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プロローグ・エピローグに挟まれて、四人の高校生男女の視点が切り替わってひとつの物語が構成されるライトな青春モノノベルだが、登場人物の視点の切り替えからのギャップの生み方が上手く面白い。著者の文体の特徴なのだろうけれど、文語調の言葉が織り混ざるのが個人的には好きなところだ。口語と文語が混ざった違和感がありそうなところだけど、全体として統一感があるのでヘンテコにはなっていないような。細かい言葉なんぞ気にせずとも物語の展開がすらすら進むので読みづらいことはなかった。青春したいな?拙者はしたいぞ?という気持ちになっていく。

それぞれの視点が切り替わることでギャップを生むという上手さでいうと京極夏彦の小説でもそういうの多用されているね。最初の登場人物の一人語りが、あとから別の人物の話を総合するとまったく違った内容として覆される。芥川龍之介の「藪の中」とかもそうだよね。

死ね

わからない。僕よりつまらないツイートしてるやつらが何万RT何万イイネとかされてんの見ると本当に意味がわかりませんよね。まぁそんなことはどうでよいです。ちょっとムカついてるだけなんで。嫌いなタイプのツイートが回ってきたのでこころが荒れているということですね。あの、なんていうんですか、ガキの理科のテストの回答を巡る是非の論争っていうですかね。たまに起こるやつ。なんだっけ、もう一生存在すら目につかないようにするためブロックしたから細かいことは覚えておらずわからないんだけど、「夏が何故暑いのか答えよ」みたいな問いに対して「地軸が何度傾いてるから」みたいな回答をして、それを評価してくれた先生エライ、イイハナシダナーみたいなやつだったかな?それに類する話、ちょくちょくあるじゃない。手を変え品を変え。あの手の話、大嫌いでね。何の説明にもなってなくない?バカじゃねえの。みんなツイート作文大賞でも競ってんのかな。だったらそういうタグつけてやってくださいませんか。そういう国語のお題なんだったらまだ理解できるわ。そうでないならみんな死んでくださいませんかね。本当に嫌いでたまらない。それらの論争笑笑笑がダメなわけではなく、僕がもうダメで、なにもかもダメ。人のツイートを見ていて日本語表現のやりかたが嫌いなやつはみんなブロックかミュートして、めんどくさいからブロックブロックブロック、消えろ、死ね、とつぶやきながらブロック。文章の巧拙じゃない。たとえば長文を労して何も言ってないようなものは嫌いだからブロック。多少言葉づかいを間違っていても伝えたいことがわかるものは読む。わからないものは読まない。人になにか伝えたいという気持ちがわかる文章が好き、そうでないものは嫌い。大雑把にいうとそういうところか。まぁ厳密なとこではないけど。なお、このクソ記事は人に丁寧に伝えようって気持ちなんてないから、僕は人のこと偉そうにいえませ〜ん。いいんだよ、どうせ誰も読んでいないのだろうし、読まれようが読まれまいがどうでもいい。本当にもうだめでね、なにもわからなくてだめ。人生楽しみた〜い!って思い込みたいけど、ムリ。ムリ。前半に書いたような嫌いなものが目に入ると、もうこころから死んでほしいとしか思えなくなるから、こんな邪悪なこころでは人間世界で生きてゆけないよな。わかっているよ。諦めている。おんなじようなこと何度も書くけど、それはずっとずっと同じことを変わらず思っているということのであり、そう簡単に変わりゃしないね。好きなものとかないんだよ。好きなバンドでもアイドルでも本でもいい、あるよ、好きな人とかもたまにはできるよ、いたよ、でもそんなもん全部むだじゃないすかね?なにひとつ手に入らない、そんなものを追いかけてなんの意味があるのか?意味なくない?そんな気持ちが拭えず、愛せない。現実を歪めるほど好きになり愛してみたいがなにひとつそこまで至らない。すべて現実の前に折れてしまう。あと大嫌いなものもひとつ書いとくと、美しい日本語が好きですとか言ってる者がこころから嫌い。美しい日本語ってなーに?みやびな言葉づかいのことやろかぁ?美しい日本語表現とやらを使ってわかりやすく説明してくれや〜って煽りたくて煽りたくてたまらない。大嫌いだ。おまえのくだらないこだわりなど世の中の誰ひとり求めていない。まぁゴミクズみたいな僕の存在も求められていないんで、おアイコだね。死ねよ。おまえが死ぬのを見届けまで僕は死なないけれども。本当にもうなにもかもがイヤで嫌いでたまらないんだよね。そういう病なんすかね?わからね〜、嫌いなものが多すぎて人生ムリ

死ね

クソどうでもいいことを書きます。
「しょせん人生なんてヒマつぶしだ」という言説がまったく理解できない、ということを書きます。深い意味をもってこの表現を使っている人って見たことがないので、おそらく、おそらくは「人生は諸行無常だよな」というくらいの軽い意味で使っているのだろうけれども、もしもそうでないならば、「ヒマつぶし」という言葉を本来使うときのことを考えたらおかしくないすかね。ヒマつぶしって、そう遠くない未来のある一点までの余暇をテキトーなことして過ごすっていうことであって、ある一点を迎えた以降はなにかしらやるべきことがあるってことを前提していると思うんだけど。人生がヒマつぶしだとおっしゃる人はその一点をどこに設定しているんだ?文意そのまま受け取ると、人生終わるときがヒマつぶしの到達点ですよね?死んでからおまえはなにをするつもりなんだ?ヒマつぶしが終わってからやることがないならば、ヒマつぶしという言葉の選択は誤っているぞ?到達点から先の未来をどう考えているのか、わからない。ゆえに「人生はヒマつぶし」だと言う人間の心意がわからない。もしかして僕とはまったく違う時間軸の世界が見えているのか?そう思うと恐ろしくなってくる。「人生は"ひつまぶし"だ」と言われたほうがまだわかる。なんか味わい深い人生なんだろうなァ、と曖昧ながら解釈できるから。こんな細かいことが気になってしまうタチだから、僕は人生が上手くいかないのだろう。神経質すぎるだろうか?神経質でもゴミムシでもなんでもいいですよ、もう。生きていたくないです。あぁ、こういう消化試合のような感じを表すときに使っているのかな。すこしわかった気がしました。

 

※このクソ記事は、人生のヒマつぶしのために書かれました

【読んだ本メモ】廣野由美子『批評理論入門 「フランケンシュタイン」解剖講義』(中公新書)

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メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』を内容を例にとりつつ、小説の批評手法の数々を紹介している。
以前読んだ別の批評理論入門的なものだと、『文学部唯野教授』があった。あちらは文芸批評の歴史を追って批評の手法がどのように発展したか、大学内のゴタゴタストーリーを絡めつつ講義形式で解説しているのに対して、こちらは批評手法をジャンル別に紹介している感じ。構成やまとめ方が異なるので、同じものを二度読んだ感覚にはならない。観点が違うので併せて読むのがいいと思う。

mixi.jp

こっから下は、こんな種類の批評のやりかたを取り扱っていましたというテキトーなメモです。内容をぜんぶ律儀に網羅的には書いていないです。メンドクセーので。

 

●内在的アプローチ
小説の形式・技法、テキストの構造や言語を扱う批評のやりかたのこと。前半である第一篇はそれら形式的批評のいろいろな要素について。ストーリーとプロット・結末、比喩表現、語り手が語る際の「提示」と「叙述」、その作品以前の文学作品からの影響を読み取る間テキスト性、メタフィクション要素……
中でも面白かったのは語り手が信用できるかどうかということ。ちょっと前に読んだ「悪童日記」なんかは.語り手(日記の書き手)を信用するかどうかでまったく話の受け取り方が変わってくるものだったね。

 

●外在的アプローチ
文学テキストが世界の一部であることを前提として、文学以外の対象や理念を探求するために文学テキストを利用するやりかたのこと。
後半の第二篇では各種批評理論のスタイルを用いて「フランケンシュタイン」を読み解いていく。
そんな読み方もできるのか、と思うものがたくさんある。サラッとしか触れられてはいないものの、導入としてはちょうどいい。

・道徳的批評
酷い扱いをしたことで人造人間が怪物に変わったのだと、教訓譚的・道徳的テーマから論じる。

・伝記的批評
作品を作者の人生の反映と見る。

・ジャンル批評
他作品のジャンルとの差異・関係性を論じる
ロマン主義・ゴシック小説・リアリズム小説・
SFといった各ジャンルの要素を切り出してみることができる。

・読者反応批評
作品は読者の存在を前提としたものであり、読者によって反応が異なることから、テキストが何を意味しているかではなく、テキストが読者の心にどのように働きかけるかという問題を扱う。空白や空隙、省略部分のギャップを読者がどう埋めて説明づけるかということに焦点を当てる。

脱構築批評
対立概念・二項対立の境界を消滅させ、対立に含まれている階層に疑問を突きつけ批判する。

精神分析批評
フロイト的解釈
意識・スーパーエゴから追い出され抑圧された無意識におしとどめられたものが作品の創造的行為に込められているとする。作者自身や作品の制作過程が分析対象とされる。

ユング的解釈
無意識には、生まれながらにして民族や人類全体の記憶が保有されている「集団的無意識」なるものがありとした。文明によって抑圧された人類全体の欲望である集団的無意識によって受け継がれてきた原初の心象や状況、テーマを「原型」と呼び、夢・神話・文学などに繰り返し現れるものだと考えた。

・神話批評
文化人類学フレイザーは宗教の起源を祭式神話に求め比較研究し、時代空間の隔たりをこえて共通する人間精神の類似性があることを指摘した。ここから、個人や歴史を超えた人間経験の原型を文学作品のなかに探し当てる原型批評・神話批評という分析を行う。

ラカン的解釈
フロイトの理論に言語の要素を加えてどうのこうの…

フェミニズム批評
・男性作家の作品を女性の視点で見直し、女性の抑圧や家父長制的なイデオロギーがいかに形成されているか明らかにする。
・男性中心に形成された文芸伝統の陰に埋もれてしまった女性作家の作品を再評価する。

ジェンダー批評
ゲイ批評やレズビアン批評、両性愛者や性転換者を対象に含むクイア理論などを取り入れて解釈する。

マルクス主義批評
文学作品をある特定の歴史的時点に生じた産物であるとし、その生産に不可欠な政治的・社会的・経済的条件を探求し、それらとの関係において作品の意味を解明しようとする。

文体論的批評
テキストにおける言語学的要素に着目して、著者が語や語法をどのように用いているか分析する。

不透明な批評
テキストを客体と見て、形式上の仕組みをテキストの外側に立って分析する。

透明な批評
作品世界と読者の世界に仕切りが存在しないかのように、テキストの入り込んで論じる手法。

 

 

唐突だが、これでオシマイ。

【読んだ本メモ】メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』(小林章夫訳 光文社古典新訳文庫)

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ある科学者によって見るも醜くく生み出された人造人間が己の生に絶望して復讐に狂う怪異譚。フランケンシュタインが化け物の名前じゃないことは知っていたけども、こいつ普通にしゃべれるんだ!って読んで初めて知りました。書簡体小説で、作品の構造も入り組んでいる。映画などに翻案されまくってるからなんとなくなイメージが先行しちまっているのだな。
原作のこの小説のフランケンシュタイン博士は決してマッドサイエンティストなわけでなく、好奇心と純粋な科学的向上心のもとで命を生み出してしまった。ところが生み出した人造人間が醜いばっかりにビビって放り出しちゃうんだな。自我を得た化け物はなんとか人間の仲間入りできないものか悩み、努力し行動するわけだけども、誰にも受け入れられず絶望し、凶行に及ぶ。こうなったらもうただひとり自分を生み出した科学者に頼るほかないと、フランケンシュタイン博士に自分の伴侶を作り出せと迫るが結局叶わず、復讐の鬼と成り果て、フランケンシュタインも自分の家族を殺されたことで怪物を滅ぼすべく決意する。メイン登場人物の誰に感情移入するかというところで読み方感想が変わってきそう。Fateのフランはこの化け物の伴侶設定でしたっけ?アポクリファを途中までしか見ていない非国民だもんでね。
読みながらフランケンシュタインにも化け物にもおまえらもうちょいやりようがあったんじゃないか、と思いながら読んじゃうのはたぶん人ごとだからそんなふうに思えるようなもので、たとえば自分が善意で生み出したもの・作ったものが悪用されたりしたら、とんでもない葛藤に悩まされるだろうな。そんな読み替えのできる要素もあるように思う。
このあと読んだ批評理論入門の本ではこの作品を取り扱っていろんな読み方を紹介していたので、併せて読むといっそう楽しめた。