アサヒ死ンブン

死骸ブログ

生きろ

2/27 大森靖子銀杏BOYZのツーマンライブに行ってきた。ライブがあることはだいぶ前から知っていたのだけど、平日だし予定もサッパリわからないヤと思ってチケットを買いもしなければ探してもいなかった。が、前日の夜にチケットの譲り先を探している人をたまたま見つけ、見つけた瞬間「行きたい」気持ちが沸騰し、すぐにご連絡、譲ってもらえたのだ。譲ってもらえて本当に幸運だった、行けてよかった。どっかで「駆け抜けて性春」と「非国民的ヒーロー」はふたりで歌うのだろうなと予想はできていたけど、しょっぱなからきた。ガンガンきた。ことばもないよ。銀杏BOYZを一番よく聴いていたのは高校生のころだけど、生で見るのは初めてのことだったのだ。あのころはMDで音楽聴きながら自転車登校していて、いろいろ聴いていたな。なかでも銀杏聴きながら自転車ぶっとばすのが楽しかったよ。アルバムで「駆け抜けて性春」を初めて聞いたとき、ゲストボーカルにJUDY AND MARYYUKIちゃんが参加していてびっくりしてのだ。わたしはまぼろしなの、あなたの夢のなかにいるの。とても泣かせるフレーズなのだ。そこを今回のライブでは靖子ちゃんが歌ったわけだ。大好きな歌を大好きな人が歌うというのは、夢のようだな。去年リリースイベントで靖子ちゃんの歌は聴いたことあったけど、ちゃんとしたライブでがっつり聴くのはこれまた初めてだった。よかった、とてもよかった。二時間半くらいだったっけか、ライブ終わってからおうちに帰るまでふらふらで、なにを読んでも文字があたまに入らない、最寄りからひと駅手前で降りて歩いて、ライブで聴いた歌を小さく口ずさんではなみだが出そうになっていた。銀杏をもっとも聴いていたころから10年以上経って、身もこころもぼろぼろになり果て多くのものを失ってきたが、銀杏BOYZを好きな情熱は失っていなかった。とっくに消えたと思っていた情熱だが、まだまだ沸くものなんだな。意外だったよ。そして、年を食っていくなかで精神は荒れ果て新しい感情なんてもうなにも抱けないかと思っていたけれど、大森靖子がちゃんと好きになれたことだけははっきりわかった。ずっと好きでいるだろう。いま、それ以外はなにもわからない。わからなくてよい。

死ね

とてもしんどいですね、なにをしたらいいのかわからないね。むかしからもう何が何だかわからないまま、そのうちなんとかなるかなと思いながら生きてきたら、気づいたら生活は荒れ果て、年老い、精神は荒廃し、なにも得られず、このざま、起き上がることすらキツイ、どこで失敗したのかも、どうやってやり直せばよいのかもまったくわからない。僕がなにをしてもおもしろくもおかしくもない一方そのころ、楽しそうに生きているゴミクズどもはいったいなんなんだ?死ねって直接言ったのに死んでいないやつもいるし?なぜ死なない?森羅万象が憎い、って、もう、10年くらい言い続けているけど、まったく滅ばないですね、森羅万象。どこにどうやって助けを求めたらいいのかもわかんないだよね。なにが困っているのか?なにもかも、としか言いようがない。わからない。無理ったら無理なもんはどうやっても無理なんだな。人間関係が重しになっているのかもしれん、と思ってウザッたい連絡先をブロックして付き合いをカットしたところで、その相手がた、想像上は存在しつづけているから、結局重しを消すことなどできないのだな。想像上の共同体!!(←これは、言ってみたかっただけです)たぶんこれが駄目なんだな〜ってのがなんなのか、だいたいわかってんだよ、人のことをあんまり信じていないから、その信じていない気持ち・雰囲気などが伝わり、相手からも信じられていないのだろう。でもこれは、これはどっちが先なのだろうな?僕は人から信じられているとか愛されているとかほとんど感じたことないので(送信機たるおまえたちの性能の問題なのか受信機たる僕の性能の問題なのか判別がつかない)、それなら信じなくてもお互いサマかなって感じなのだけど。まぁ、どっちでもいいです、形而上学的な(←形而上学という言葉を使いたかっただけです)こと言い合ってても現実に変化がないこと、よくわかっています。唯物論者でもないです、欲しいものなんもないし。金もないです。なんか、言葉の使いかたいろいろ間違っているね?考える気力がないので、勘弁してほしい。ぜいたくをしたいと望んだわけでもなし、多数から恨みを買うような悪逆を為したわけでもないつもりなのに、どうしてこんな惨めな人生を送りつづけているのか、わからない。徳福を願って神の憎みを蒙ったのか?(←このフレーズ好きだわ)もう少し何かあってもいいと思うんだが、これのために生きるんだという生き甲斐でも、これのためなら死ねるという死に甲斐でも。ないのか?そこになければ、ないですね。ないんだなこれが。静かな夜ですね、この静謐ななかみなさんは静かに眠っているのだろう、僕はなにがなんだかわからない気持ちを抱きながらまったく眠れない。死〜ん。憎しみの気持ちすら枯渇したらいよいよ生きるパワーが消滅してしまう気がするので、明日もイライラしながら生きてゆきます。おまえたちもイライラしろよ。僕だけイライラしなきゃいけないのはなんかずりーだろ。わからないですね。なにもわからない。

 

【読んだ本メモ】アゴタ・クリストフ『悪童日記』(ハヤカワepi文庫 堀茂樹訳)

f:id:the_midnight_loser:20180223021305j:image

もうだいぶ前に一度読んだことがあったのだけど、読書会の課題本になっていたのを発見したので再読、読書会にも参加してきました。
以前読んだときは 続編にあたる『ふたりの証拠』『第三の嘘』まであまり間を置かず読み切ったのだ。
(どんでん返しにつぐどんでん返しに揺さぶられた記憶だけあるのだけど、続編の内容はもう覚えていない)

 

疎開先の祖母のもとに預けられた双子の兄弟が戦争の日々という非日常を大人顔負けのしたたかさをもって生き抜く様子をつづった日記、というスタイルの小説。文章自体は淡々としていて、分量的にもすぐに読める。作中で銘記はされていないけれど、舞台は第二次世界大戦末期のハンガリー、大国の戦争に巻き込まれた小国の複雑な情勢が物語の背景に見え隠れしている。

 

この作品の恐ろしいなと思うところは、自分のなかでどう読むか・どう解釈するかを考えたときに、想像の余地がとても広いことだと思う。テキストの内容をそのまま受け取ればなんて強い子供たちなんだ、戦争という極限状態がこの子達をこんな風にしちゃったんだな~、というふうに、「好意的に」読むこともできる。そのうえで子供たちなりの倫理観を理解してあげることも、間違いではないのだろう。
ところがこの日記の書き手は、作中でわざわざ「作文の練習」をしていることを書きしるしている。とすると、この日記は必ずしも真実を描いた日記ではないのではないだろうか?という疑問が生まれてくる。どこまでが真実で、どこからが挙行なのだろうか?と考えだしたときに、極端を言えばすべてが作り物、虚構なのではないか?とすら思えてくる。日記の始まりは子供たちが祖母の家に連れてこられるところだけど、始まりの時点からこの兄弟は抜け目なく親たちの会話を盗み聞きしている。弱かったころの自分たち、のような描写がないのだ。自分たちのありのままの姿を知ってもらいたかったのか?はたまた作り話を読んでもらいたかったのか?
そんな感じで、想像を膨らませる余地が膨大にある作品だった。三部作の続編で、この日記の意味は明かされる。とはいえ、それはあるルート分岐のひとつ、くらいに思ってあまりとらわれずに、この作品はこの作品単体として自分なりの妄想想像を思い描くのがいいように思う。

 

↓一年半くらい前に読んだときはこんなことを書いていた。
http://open.mixi.jp/user/4799115/diary/1955638038

死ね

ある日突然、いくつか持っていたツイッターサブアカウントがすべて死に果て申した。ロックされた。ログインできない。一族郎党、皆殺し。解除には電話番号からのSMS送信解除コードが必要なのだけど、どこのアカウントかで登録しちまって送りようがない。違法動画コピー野郎を引用リツイートで煽ったり死ね死ね言ってたせいですかね。僕のアカウントだけじゃなくてみんな死に果てろってかんじなんだけどな。あんまり普段使うアカウントでね、他人の存在を否定する言葉って使いたくないじゃないですか。「死ね」だの「屠る」だのね。いやあ、使いたくてたまらないのだけどね。その気持ちを抑えきれないからゾンビアカウントで死ね死ね言っていたのに。まぁご理解いただけねえだろうなぁ。ひとつひとつ問い合わせフォームからメールを送るなどして息を吹き返している。と思ったら、ご利用のアカウントで攻撃的な見受けられる内容が云々ってメールがきたわ。しかし、「あのラーメン屋くそまずい」みたいなツイートしてるやつらめちゃ攻撃的じゃないすか?あいつらはなんで消えないのかナゾですね~~~

死ね

ちかごろなにもかもが嫌になって連絡先をブロックしまくったりツイッターのアカウントを消したりしたのだけど、それでいて、それじゃ日常においてやることがなさすぎるので新しいアカウントを作ったりなどしている。もうプロフィールに好きなものは書かないことにした。もともと好きなものは自分ひとりで楽しめればよかったはずなのだ。いつから人と一緒に楽しむだなんて甘いぬるいお湯のような生活がよいと思うようになったんだろうな。よいとも、よいとも、楽しいよ。歓喜だろうよ。そうやって無限永久にみんなで一緒に楽しく生きていければよかったんだろうよ。しかし、僕にはもうついてゆけない。困ったな。そこで自己矛盾を起こしてこころがつらくなったのだ。延々(30分くらいか)悩んだすえに、いつ消すの?今でしょ。カット、カット、カット、カット、ぜんぶ削除だよ。思い出も過去も未来も要らぬ、要らぬ。余計な重荷を背負っておったのが馬鹿馬鹿しゅうなった。昔はこんな気持ちになったらミクシーにね、知ってますか?ミクシーって。化石みたいなSNSだよ。インターネットの遺跡になりつつあるSNSだ。そこにいろいろ書いていたが、あれもいやになった。ひところは心中したいくらい好きだったはずなんだがな。いやになった。どう生きればいいのか、って形而上学的な話をしているはずなのに、あーすればよいのではこーすればよいのではみたいな間抜けなコメントは不要だ。一度好きになったものはなかなか嫌いにならない、てのが口ぐせだったはずなんだがね。ちかごろなにもかも嫌いになっている。fgoが好きなのはずっとひとりで遊んでいられるからだろうな。なにゆえ森羅万象が嫌いになっているのかってえと考えてみると、人間嫌いに拍車がかかってんだな。むかしはただ、ひととしゃべるのが不得手だっただけなんだよ。仲良くなったひとは大切にしたいと思ったし、愛したいと思ったし、裏切りたくないとも思っていたね。いまはもうそういうのが無理になったのだ。もう、駄目なのだな。別に僕がいなくてもよくないすかね。よいよね。あぁ、楽しそうにしているやつら、幸せそうなやつら、だれひとり見ていたくない。僕はなにも楽しくもなければ幸せも感じられない。ずりーだろそんなん。だからブチ殺したいくらいイラつくんだ、おまえたちを、みていると。マジ卍。僕がもう少し体格よかったら往来でぶん殴ったりできたのかな。血を見るのが怖い性格じゃなかったら刺したりできたのかな。屍山血河を築くとこだったんだぞ。いやあ、命拾いしたなぽまいらってかんじ。フェースブックの通知もうぜえんだ。消したい。インスタグラムもぶち壊してえな。そこでしか繋がっていないひとがいることを思うと消し難いというか。ドケチな性分が災いしたな。別に嫌いな特定の誰かがいるってわけではないです。幸せそうなやつらがみんな嫌いってことです。いやあ、この歳になってこんなガキみたいなことで悩むとは思いませんでした。あと、金もないです。なにもできない。住民税を明日はらうと、持ってる口座ふたつ総算しても引越しがギリできるかな?くらいの現金しか残らない気がする。連合艦隊は壊滅。お終いだね。まぁ、金があればなんとかなるって話でもない。なにもないんだよ。だから困ってんだよな。芸術家ならこのモヤモヤを音楽だのキャンバスだのにぶつけるんだろうが、そういう才能がないのは三十年も生きてりゃわかりました。馬鹿みたいにいろいろ読んできたけれど、書くのも無理です。なにも書けねえんだな。人に読んでもらいたいもの、書けないの。世の小説家どもはどーやって書いてんだろうな。不思議遊戯だよ。どう生きればいいんだろうな。誰からも認められないのは、僕が誰のことも認めなかったからなのだろうか?

 

などと思っていることを書き出せばなにかと頭のなかが整理されるかと思いましたが、ムカつくことをたくさん思い出す以外に効用はなかった。徒労の10分であったな。憎いな。憎悪を撒き散らすほかやることがねえよ。

「サラリーマン川柳」に対抗して「キチガイ社畜短歌」10首

バカみたいな仕事でへとへとになった帰り道、インターネットでヌルいサラリーマン川柳を読んで対抗意識が芽生えました。サラリーマンってのはもっと殺伐としているべきなのだ。トンチをきかせていい気になってんじゃないよ。もっと本当の気持ちを、こころの奥底からの怨嗟の声をきかせてほしい。文学ってそういうものだろう?なかなか本心を言葉にできない社畜根性の鍛えられたみなさんの魁(サキガケ)となれれば幸いです。


どうしても残業代が出せぬなら
上司の命で払ってもらおう

 

明日から来なくていいよさようなら
いまだきかれぬ魔法の言葉

 

「どうやってお客様を説得するの?」
ナイフを喉につきつければ?????

 

徹夜明け行き交う人を殴りそう
わたしは歩く労働災害

 

「この仕事、任せた」と君が逝ったから
二月十日は社畜呪怨

 

もうだめだ、身体もこころも持ちません
地獄にお先に失礼します

 

おいお前社会をなめているのかと
怒鳴られ逆ギレ刺して血まみれ

 

この先の避難経路を押さえれば
有事に全員殺せるのだな

 

新品のピカピカ光るパソコンに
ゲロを吐いたら辞められるかな

 

憎らしい御社の最期を見届ける
死のキャリアパスを歩く毎日

 

いつの日か人工知能が人類を
滅ぼすときを夢見て就寝 

【読んだ本メモ】大槻ケンヂ『新興宗教オモイデ教』(角川文庫)

f:id:the_midnight_loser:20180211002443j:image

丸尾末広の表紙イラストに惹かれて買いました。大槻ケンジには縁がなく、実はキンショーもろくに聴いていない。
クラスメイトの女の子に誘われて行った謎の宗教団体で、人を狂わせる謎の電波能力を使った能力者たちによる謎のバトルが繰り広げられ、主人公の少年にも謎の能力が目覚めていく青春モノ小説。なのだが、すっきり明るくスカッと爽快なわけでなく、こころのなかの溜まったもやもやをどう晴らそうかってのがテーマといえるんじゃないだろうか。
展開や構成的・伏線の回収具合のようなところで物足りないところがなくもないけど、著者あとがきで、筆が乗るにつれて「最初の構想と違ったものになっていって自分でもどう結末を迎えるかわからなくなっていった」というようなことを書いていて、キッチリ考えたとおりに型通りに進んでいたらこんなに面白くはならなかったんじゃないだろうか。一揆に読ませる勢いがあるのと、小ネタ、言葉の使いっぷりが面白い。能力が「誘流メグマ祈呪術」って名付けられてるんだけど、すごくないすかこのセンス。目次の章見出しを見てこれは絶対面白いはずだと思ったのだ。