アサヒ死ンブン

死骸ブログ

【読んだ本メモ】廣野由美子『批評理論入門 「フランケンシュタイン」解剖講義』(中公新書)

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メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』を内容を例にとりつつ、小説の批評手法の数々を紹介している。
以前読んだ別の批評理論入門的なものだと、『文学部唯野教授』があった。あちらは文芸批評の歴史を追って批評の手法がどのように発展したか、大学内のゴタゴタストーリーを絡めつつ講義形式で解説しているのに対して、こちらは批評手法をジャンル別に紹介している感じ。構成やまとめ方が異なるので、同じものを二度読んだ感覚にはならない。観点が違うので併せて読むのがいいと思う。

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こっから下は、こんな種類の批評のやりかたを取り扱っていましたというテキトーなメモです。内容をぜんぶ律儀に網羅的には書いていないです。メンドクセーので。

 

●内在的アプローチ
小説の形式・技法、テキストの構造や言語を扱う批評のやりかたのこと。前半である第一篇はそれら形式的批評のいろいろな要素について。ストーリーとプロット・結末、比喩表現、語り手が語る際の「提示」と「叙述」、その作品以前の文学作品からの影響を読み取る間テキスト性、メタフィクション要素……
中でも面白かったのは語り手が信用できるかどうかということ。ちょっと前に読んだ「悪童日記」なんかは.語り手(日記の書き手)を信用するかどうかでまったく話の受け取り方が変わってくるものだったね。

 

●外在的アプローチ
文学テキストが世界の一部であることを前提として、文学以外の対象や理念を探求するために文学テキストを利用するやりかたのこと。
後半の第二篇では各種批評理論のスタイルを用いて「フランケンシュタイン」を読み解いていく。
そんな読み方もできるのか、と思うものがたくさんある。サラッとしか触れられてはいないものの、導入としてはちょうどいい。

・道徳的批評
酷い扱いをしたことで人造人間が怪物に変わったのだと、教訓譚的・道徳的テーマから論じる。

・伝記的批評
作品を作者の人生の反映と見る。

・ジャンル批評
他作品のジャンルとの差異・関係性を論じる
ロマン主義・ゴシック小説・リアリズム小説・
SFといった各ジャンルの要素を切り出してみることができる。

・読者反応批評
作品は読者の存在を前提としたものであり、読者によって反応が異なることから、テキストが何を意味しているかではなく、テキストが読者の心にどのように働きかけるかという問題を扱う。空白や空隙、省略部分のギャップを読者がどう埋めて説明づけるかということに焦点を当てる。

脱構築批評
対立概念・二項対立の境界を消滅させ、対立に含まれている階層に疑問を突きつけ批判する。

精神分析批評
フロイト的解釈
意識・スーパーエゴから追い出され抑圧された無意識におしとどめられたものが作品の創造的行為に込められているとする。作者自身や作品の制作過程が分析対象とされる。

ユング的解釈
無意識には、生まれながらにして民族や人類全体の記憶が保有されている「集団的無意識」なるものがありとした。文明によって抑圧された人類全体の欲望である集団的無意識によって受け継がれてきた原初の心象や状況、テーマを「原型」と呼び、夢・神話・文学などに繰り返し現れるものだと考えた。

・神話批評
文化人類学フレイザーは宗教の起源を祭式神話に求め比較研究し、時代空間の隔たりをこえて共通する人間精神の類似性があることを指摘した。ここから、個人や歴史を超えた人間経験の原型を文学作品のなかに探し当てる原型批評・神話批評という分析を行う。

ラカン的解釈
フロイトの理論に言語の要素を加えてどうのこうの…

フェミニズム批評
・男性作家の作品を女性の視点で見直し、女性の抑圧や家父長制的なイデオロギーがいかに形成されているか明らかにする。
・男性中心に形成された文芸伝統の陰に埋もれてしまった女性作家の作品を再評価する。

ジェンダー批評
ゲイ批評やレズビアン批評、両性愛者や性転換者を対象に含むクイア理論などを取り入れて解釈する。

マルクス主義批評
文学作品をある特定の歴史的時点に生じた産物であるとし、その生産に不可欠な政治的・社会的・経済的条件を探求し、それらとの関係において作品の意味を解明しようとする。

文体論的批評
テキストにおける言語学的要素に着目して、著者が語や語法をどのように用いているか分析する。

不透明な批評
テキストを客体と見て、形式上の仕組みをテキストの外側に立って分析する。

透明な批評
作品世界と読者の世界に仕切りが存在しないかのように、テキストの入り込んで論じる手法。

 

 

唐突だが、これでオシマイ。

【読んだ本メモ】メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』(小林章夫訳 光文社古典新訳文庫)

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ある科学者によって見るも醜くく生み出された人造人間が己の生に絶望して復讐に狂う怪異譚。フランケンシュタインが化け物の名前じゃないことは知っていたけども、こいつ普通にしゃべれるんだ!って読んで初めて知りました。書簡体小説で、作品の構造も入り組んでいる。映画などに翻案されまくってるからなんとなくなイメージが先行しちまっているのだな。
原作のこの小説のフランケンシュタイン博士は決してマッドサイエンティストなわけでなく、好奇心と純粋な科学的向上心のもとで命を生み出してしまった。ところが生み出した人造人間が醜いばっかりにビビって放り出しちゃうんだな。自我を得た化け物はなんとか人間の仲間入りできないものか悩み、努力し行動するわけだけども、誰にも受け入れられず絶望し、凶行に及ぶ。こうなったらもうただひとり自分を生み出した科学者に頼るほかないと、フランケンシュタイン博士に自分の伴侶を作り出せと迫るが結局叶わず、復讐の鬼と成り果て、フランケンシュタインも自分の家族を殺されたことで怪物を滅ぼすべく決意する。メイン登場人物の誰に感情移入するかというところで読み方感想が変わってきそう。Fateのフランはこの化け物の伴侶設定でしたっけ?アポクリファを途中までしか見ていない非国民だもんでね。
読みながらフランケンシュタインにも化け物にもおまえらもうちょいやりようがあったんじゃないか、と思いながら読んじゃうのはたぶん人ごとだからそんなふうに思えるようなもので、たとえば自分が善意で生み出したもの・作ったものが悪用されたりしたら、とんでもない葛藤に悩まされるだろうな。そんな読み替えのできる要素もあるように思う。
このあと読んだ批評理論入門の本ではこの作品を取り扱っていろんな読み方を紹介していたので、併せて読むといっそう楽しめた。

生きろ

2/27 大森靖子銀杏BOYZのツーマンライブに行ってきた。ライブがあることはだいぶ前から知っていたのだけど、平日だし予定もサッパリわからないヤと思ってチケットを買いもしなければ探してもいなかった。が、前日の夜にチケットの譲り先を探している人をたまたま見つけ、見つけた瞬間「行きたい」気持ちが沸騰し、すぐにご連絡、譲ってもらえたのだ。譲ってもらえて本当に幸運だった、行けてよかった。どっかで「駆け抜けて性春」と「非国民的ヒーロー」はふたりで歌うのだろうなと予想はできていたけど、しょっぱなからきた。ガンガンきた。ことばもないよ。銀杏BOYZを一番よく聴いていたのは高校生のころだけど、生で見るのは初めてのことだったのだ。あのころはMDで音楽聴きながら自転車登校していて、いろいろ聴いていたな。なかでも銀杏聴きながら自転車ぶっとばすのが楽しかったよ。アルバムで「駆け抜けて性春」を初めて聞いたとき、ゲストボーカルにJUDY AND MARYYUKIちゃんが参加していてびっくりしてのだ。わたしはまぼろしなの、あなたの夢のなかにいるの。とても泣かせるフレーズなのだ。そこを今回のライブでは靖子ちゃんが歌ったわけだ。大好きな歌を大好きな人が歌うというのは、夢のようだな。去年リリースイベントで靖子ちゃんの歌は聴いたことあったけど、ちゃんとしたライブでがっつり聴くのはこれまた初めてだった。よかった、とてもよかった。二時間半くらいだったっけか、ライブ終わってからおうちに帰るまでふらふらで、なにを読んでも文字があたまに入らない、最寄りからひと駅手前で降りて歩いて、ライブで聴いた歌を小さく口ずさんではなみだが出そうになっていた。銀杏をもっとも聴いていたころから10年以上経って、身もこころもぼろぼろになり果て多くのものを失ってきたが、銀杏BOYZを好きな情熱は失っていなかった。とっくに消えたと思っていた情熱だが、まだまだ沸くものなんだな。意外だったよ。そして、年を食っていくなかで精神は荒れ果て新しい感情なんてもうなにも抱けないかと思っていたけれど、大森靖子がちゃんと好きになれたことだけははっきりわかった。ずっと好きでいるだろう。いま、それ以外はなにもわからない。わからなくてよい。

死ね

とてもしんどいですね、なにをしたらいいのかわからないね。むかしからもう何が何だかわからないまま、そのうちなんとかなるかなと思いながら生きてきたら、気づいたら生活は荒れ果て、年老い、精神は荒廃し、なにも得られず、このざま、起き上がることすらキツイ、どこで失敗したのかも、どうやってやり直せばよいのかもまったくわからない。僕がなにをしてもおもしろくもおかしくもない一方そのころ、楽しそうに生きているゴミクズどもはいったいなんなんだ?死ねって直接言ったのに死んでいないやつもいるし?なぜ死なない?森羅万象が憎い、って、もう、10年くらい言い続けているけど、まったく滅ばないですね、森羅万象。どこにどうやって助けを求めたらいいのかもわかんないだよね。なにが困っているのか?なにもかも、としか言いようがない。わからない。無理ったら無理なもんはどうやっても無理なんだな。人間関係が重しになっているのかもしれん、と思ってウザッたい連絡先をブロックして付き合いをカットしたところで、その相手がた、想像上は存在しつづけているから、結局重しを消すことなどできないのだな。想像上の共同体!!(←これは、言ってみたかっただけです)たぶんこれが駄目なんだな〜ってのがなんなのか、だいたいわかってんだよ、人のことをあんまり信じていないから、その信じていない気持ち・雰囲気などが伝わり、相手からも信じられていないのだろう。でもこれは、これはどっちが先なのだろうな?僕は人から信じられているとか愛されているとかほとんど感じたことないので(送信機たるおまえたちの性能の問題なのか受信機たる僕の性能の問題なのか判別がつかない)、それなら信じなくてもお互いサマかなって感じなのだけど。まぁ、どっちでもいいです、形而上学的な(←形而上学という言葉を使いたかっただけです)こと言い合ってても現実に変化がないこと、よくわかっています。唯物論者でもないです、欲しいものなんもないし。金もないです。なんか、言葉の使いかたいろいろ間違っているね?考える気力がないので、勘弁してほしい。ぜいたくをしたいと望んだわけでもなし、多数から恨みを買うような悪逆を為したわけでもないつもりなのに、どうしてこんな惨めな人生を送りつづけているのか、わからない。徳福を願って神の憎みを蒙ったのか?(←このフレーズ好きだわ)もう少し何かあってもいいと思うんだが、これのために生きるんだという生き甲斐でも、これのためなら死ねるという死に甲斐でも。ないのか?そこになければ、ないですね。ないんだなこれが。静かな夜ですね、この静謐ななかみなさんは静かに眠っているのだろう、僕はなにがなんだかわからない気持ちを抱きながらまったく眠れない。死〜ん。憎しみの気持ちすら枯渇したらいよいよ生きるパワーが消滅してしまう気がするので、明日もイライラしながら生きてゆきます。おまえたちもイライラしろよ。僕だけイライラしなきゃいけないのはなんかずりーだろ。わからないですね。なにもわからない。

 

【読んだ本メモ】アゴタ・クリストフ『悪童日記』(ハヤカワepi文庫 堀茂樹訳)

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もうだいぶ前に一度読んだことがあったのだけど、読書会の課題本になっていたのを発見したので再読、読書会にも参加してきました。
以前読んだときは 続編にあたる『ふたりの証拠』『第三の嘘』まであまり間を置かず読み切ったのだ。
(どんでん返しにつぐどんでん返しに揺さぶられた記憶だけあるのだけど、続編の内容はもう覚えていない)

 

疎開先の祖母のもとに預けられた双子の兄弟が戦争の日々という非日常を大人顔負けのしたたかさをもって生き抜く様子をつづった日記、というスタイルの小説。文章自体は淡々としていて、分量的にもすぐに読める。作中で銘記はされていないけれど、舞台は第二次世界大戦末期のハンガリー、大国の戦争に巻き込まれた小国の複雑な情勢が物語の背景に見え隠れしている。

 

この作品の恐ろしいなと思うところは、自分のなかでどう読むか・どう解釈するかを考えたときに、想像の余地がとても広いことだと思う。テキストの内容をそのまま受け取ればなんて強い子供たちなんだ、戦争という極限状態がこの子達をこんな風にしちゃったんだな~、というふうに、「好意的に」読むこともできる。そのうえで子供たちなりの倫理観を理解してあげることも、間違いではないのだろう。
ところがこの日記の書き手は、作中でわざわざ「作文の練習」をしていることを書きしるしている。とすると、この日記は必ずしも真実を描いた日記ではないのではないだろうか?という疑問が生まれてくる。どこまでが真実で、どこからが挙行なのだろうか?と考えだしたときに、極端を言えばすべてが作り物、虚構なのではないか?とすら思えてくる。日記の始まりは子供たちが祖母の家に連れてこられるところだけど、始まりの時点からこの兄弟は抜け目なく親たちの会話を盗み聞きしている。弱かったころの自分たち、のような描写がないのだ。自分たちのありのままの姿を知ってもらいたかったのか?はたまた作り話を読んでもらいたかったのか?
そんな感じで、想像を膨らませる余地が膨大にある作品だった。三部作の続編で、この日記の意味は明かされる。とはいえ、それはあるルート分岐のひとつ、くらいに思ってあまりとらわれずに、この作品はこの作品単体として自分なりの妄想想像を思い描くのがいいように思う。

 

↓一年半くらい前に読んだときはこんなことを書いていた。
http://open.mixi.jp/user/4799115/diary/1955638038

死ね

ある日突然、いくつか持っていたツイッターサブアカウントがすべて死に果て申した。ロックされた。ログインできない。一族郎党、皆殺し。解除には電話番号からのSMS送信解除コードが必要なのだけど、どこのアカウントかで登録しちまって送りようがない。違法動画コピー野郎を引用リツイートで煽ったり死ね死ね言ってたせいですかね。僕のアカウントだけじゃなくてみんな死に果てろってかんじなんだけどな。あんまり普段使うアカウントでね、他人の存在を否定する言葉って使いたくないじゃないですか。「死ね」だの「屠る」だのね。いやあ、使いたくてたまらないのだけどね。その気持ちを抑えきれないからゾンビアカウントで死ね死ね言っていたのに。まぁご理解いただけねえだろうなぁ。ひとつひとつ問い合わせフォームからメールを送るなどして息を吹き返している。と思ったら、ご利用のアカウントで攻撃的な見受けられる内容が云々ってメールがきたわ。しかし、「あのラーメン屋くそまずい」みたいなツイートしてるやつらめちゃ攻撃的じゃないすか?あいつらはなんで消えないのかナゾですね~~~

死ね

ちかごろなにもかもが嫌になって連絡先をブロックしまくったりツイッターのアカウントを消したりしたのだけど、それでいて、それじゃ日常においてやることがなさすぎるので新しいアカウントを作ったりなどしている。もうプロフィールに好きなものは書かないことにした。もともと好きなものは自分ひとりで楽しめればよかったはずなのだ。いつから人と一緒に楽しむだなんて甘いぬるいお湯のような生活がよいと思うようになったんだろうな。よいとも、よいとも、楽しいよ。歓喜だろうよ。そうやって無限永久にみんなで一緒に楽しく生きていければよかったんだろうよ。しかし、僕にはもうついてゆけない。困ったな。そこで自己矛盾を起こしてこころがつらくなったのだ。延々(30分くらいか)悩んだすえに、いつ消すの?今でしょ。カット、カット、カット、カット、ぜんぶ削除だよ。思い出も過去も未来も要らぬ、要らぬ。余計な重荷を背負っておったのが馬鹿馬鹿しゅうなった。昔はこんな気持ちになったらミクシーにね、知ってますか?ミクシーって。化石みたいなSNSだよ。インターネットの遺跡になりつつあるSNSだ。そこにいろいろ書いていたが、あれもいやになった。ひところは心中したいくらい好きだったはずなんだがな。いやになった。どう生きればいいのか、って形而上学的な話をしているはずなのに、あーすればよいのではこーすればよいのではみたいな間抜けなコメントは不要だ。一度好きになったものはなかなか嫌いにならない、てのが口ぐせだったはずなんだがね。ちかごろなにもかも嫌いになっている。fgoが好きなのはずっとひとりで遊んでいられるからだろうな。なにゆえ森羅万象が嫌いになっているのかってえと考えてみると、人間嫌いに拍車がかかってんだな。むかしはただ、ひととしゃべるのが不得手だっただけなんだよ。仲良くなったひとは大切にしたいと思ったし、愛したいと思ったし、裏切りたくないとも思っていたね。いまはもうそういうのが無理になったのだ。もう、駄目なのだな。別に僕がいなくてもよくないすかね。よいよね。あぁ、楽しそうにしているやつら、幸せそうなやつら、だれひとり見ていたくない。僕はなにも楽しくもなければ幸せも感じられない。ずりーだろそんなん。だからブチ殺したいくらいイラつくんだ、おまえたちを、みていると。マジ卍。僕がもう少し体格よかったら往来でぶん殴ったりできたのかな。血を見るのが怖い性格じゃなかったら刺したりできたのかな。屍山血河を築くとこだったんだぞ。いやあ、命拾いしたなぽまいらってかんじ。フェースブックの通知もうぜえんだ。消したい。インスタグラムもぶち壊してえな。そこでしか繋がっていないひとがいることを思うと消し難いというか。ドケチな性分が災いしたな。別に嫌いな特定の誰かがいるってわけではないです。幸せそうなやつらがみんな嫌いってことです。いやあ、この歳になってこんなガキみたいなことで悩むとは思いませんでした。あと、金もないです。なにもできない。住民税を明日はらうと、持ってる口座ふたつ総算しても引越しがギリできるかな?くらいの現金しか残らない気がする。連合艦隊は壊滅。お終いだね。まぁ、金があればなんとかなるって話でもない。なにもないんだよ。だから困ってんだよな。芸術家ならこのモヤモヤを音楽だのキャンバスだのにぶつけるんだろうが、そういう才能がないのは三十年も生きてりゃわかりました。馬鹿みたいにいろいろ読んできたけれど、書くのも無理です。なにも書けねえんだな。人に読んでもらいたいもの、書けないの。世の小説家どもはどーやって書いてんだろうな。不思議遊戯だよ。どう生きればいいんだろうな。誰からも認められないのは、僕が誰のことも認めなかったからなのだろうか?

 

などと思っていることを書き出せばなにかと頭のなかが整理されるかと思いましたが、ムカつくことをたくさん思い出す以外に効用はなかった。徒労の10分であったな。憎いな。憎悪を撒き散らすほかやることがねえよ。