アサヒ死ンブン

死骸ブログ

嘘の向こうにあるものは本当ではなくまた別の嘘

子供のころに「お香典に包むお金は新札を用意しなさい!なぜならボロボロのお札は死ぬのを前から待っていたように思われるから!結婚式はその逆!」みたいな大人ルール(常識、マナーというやつ)を聞かされ、子供心に「へぇ〜なるほどね(しょうもな)」と思った記憶がある。記憶がある。記憶がある。記憶がある、と思っていたが、実のところこれは捏造された記憶だったようで、用意すべきお札の新旧マナーを逆に覚えていた。正しくは、結婚式のようなあらかじめわかっている式には新札を持って行きなさい、になるのだと。なるほどね(しょうもな)。味噌と理屈はどこにでも付けられるってことがあらためてわかった。試みに冠婚葬祭のマナーに口うるさいママ(実母)に「結婚式当日のおめでたい日に『カラマーゾフの兄弟』を読んでるのは縁起が悪いだろうか?」ときいたら「さぁ…」って言われたし、ひとびとの吉兆に対する意識なんてテキトーなもんだろうな。常識的に考えて、結婚式のようなおめでたい日に"父殺し"の文学を読むって、お札の新旧を間違えるよりはヤバイと思うんだがな。ヤバくない?
就職活動でビジネスマナーの本を読んで「タクシーのどの位置に偉い人を乗せるべきか」みたいなことが書かれているのを知ったころから(そうすることに必然性のない)マナーがこころから嫌いになって、可能な限りぶち破っていこうと決意した。たとえばネクタイを付ける意味がわからなくって、ネクタイが役立つ場面というのが怪我をしたときの止血以外に思い浮かばない。「あれはオシャレなんですよ!」とか言うのはやめてくれ。「弊社の志望理由を述べよ」に対して「お金が欲しいから受けました」と同じくらいトンチンカンな回答をしていると気づけ。誰も胸に布キレをぶら下がることに疑問を持たない社会なんだから、こんりんざい天皇制だってなくならないだろうよ。民主主義とは"棚上げ"主義のことなんだろう。ひとは自分に損のない(と信じている)ことは現状維持を押し通すものなのだ。
じっくり考えてみると、アホみたいな理屈をもって意味のないことに意味をつけて"飛躍"を生むという点で、公共的な「常識」と「ネタツイート」には構造的に似てる部分があるように思う。常識は屁理屈みたいなもんだけど、屁理屈みたいな常識があったほうが生きやすいと考えたひとたちが屁理屈によって意味づけをしたようなものだし。ネタツイートは意味のないところに意味をつけて笑いを取るもので、ネタツイートの上手さは屁理屈の上手さと一致する気がする。
また常識をいかに外してネタにして笑いを生むかという工夫を凝らせるかということで、ネタツイートが上手いひとは感覚的に常識をよく識っているのだと思う。常識が常識としてあること、常識の「公共性」を理解しているからネタツイートとして笑いのネタを生めているのであって、根底から"常識外れ"なわけでないのだろう。常識を知らなければ常識を破ることはできない。
というわけで、僕はいつもクソみたいなことしか書いておらず常識はずれなように見せていますが!ホントは常識人なんで!!まともな人間なんで!!!好きになってください!!!!もっと好きになってください!!!!!お願いします!!!!!!!