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死骸ブログ

【読んだ本メモ】上野千鶴子『差異の政治学』(岩波現代文庫)

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性差・人種をはじめ、あらゆる非対称な権力関係から生まれる差別についての論文を収録している。セクシャリティは自然か、ゲイとフェミニズムは共闘できるか、旧優生保護法・中絶の権利をめぐる議論など、多彩な視点のものが収録されているのだけど、堅苦しい論文形式のもので、ひとむかしふたむかし前のものばかりなので、内容がわかりにくものも多かった。とはいえ、この時代にこういうことが問題とされていたのだなと知ることは大きな意義があったように思う。比較的読みやすい「<わたし>のメタ社会学」も収録されている。文学と社会学のアプローチの仕方を比べながら、著者が社会学を行うことの意義を語っている。

 

以下はテキトーなメモ走り書き
・生物学的に決定されている性差をセックス、社会的文化的な学習によって獲得される性差をジェンダーと一般には定義されているが、ジェンダーという概念がどのように定式化されていったか。セックスとジェンダーが別のものだと明らかにされたこと、ジェンダーは自由に変えられるものでなく拘束力が強いものであること。

・「欠性対立」二項対立のうち頂の一方だけが有徴化されること。「非行少年」の反対語が「善行少年」ではなく、「(非行少年でない)ふつうの少年」と言うほかない。「ふつう」とは、その特性を定義することができないような頂のこと。

セクシュアリティが近代の所産であること。余談として「天皇制」が日本近代の政治体制を批判的に呼ぶ用語だったのが、さも由緒ある歴史を持つ概念であるかのような誤認になっている。

・当事者が「誰にも見せたことのない私」を自己なのだみなす傾向がある。身体を通じて個人を管理する権力の技術をフーコーは「生権力」と呼んだ。近代以降、「真理」は「公的領域」から隠されたことがらと同義になり、人々は秘匿された「自己の真実」を「告白」しはじめる。「われわれ」から「わたくし」というものが分離し、「われわれ」に還元がたいものだけを、人々は「個性」や「人格」とみなすようになる。人々が「真の自己」とみなすのは、当事者が「他の誰も知らない私」「誰にも見せたことのない私」と考える自己のこと。

この辺は読んでいてうっすら考えたことだが、個性とは足し算すべき大切なものなの?総体から一般的なものを引き算して残ったものなのか?という方向性の違いがあると思う。引き算的な捉え方の場合、残ったものでポジティブな評価であれば個性と呼び、ネガティブな評価であれば「それはオカシイ」ということになるのだろう。個性を尊重しろとほざくガキは個性そのものの捉え方を考えてみたほうがよいのではないか?おまえが個性だと言っているものが認められるかどうか、たまたま自分の趣味嗜好が世の中の大多数と迎合するかどうかに左右されてるってことなだけなんだな。

・「教養」や「オリジナリティ」に神秘的な意味を与える必要はない。「すでに知られていること」が何かを知ること。それと自分の考えていることがどう違うかを文節する能力をもつこと。「異見」はそのようにして創られる。

 

おしまい。