【読んだ本メモ】カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日〔初版〕』(平凡社ライブラリー 植村邦彦訳 柄谷行人付論)
有名な方のナポレオン(一世)の甥でしかなかった男ルイ・ボナパルトが、普通選挙の行われる共和制のもとでどのようにして皇帝ナポレオン三世になりあがったのかを分析している。
学生時代に世界史を履修していなかったので、正直内容については明瞭に理解できるといい難いんだよね。いやムリだよね。全然わからねえ。
タイトルで「ブリュメール18日」は、1799年に有名な方のナポレオン(ややこしいよな)が総裁政府を打倒してフランス革命を終わらせたクーデターのことを言っているんだな。
そんなタイトルからなんとなくわかるように、この作品のマルクスの文章はいろいろノッている。聖書や神話やなんかの引用、掛け言葉当てこすりを多用しているのだ。解説がないとよくわかんないけども。
ルイ・ボナパルトの政治体制をdisるだけの言説は当時もあったそうだが、マルクスのこの本ではなせルイ・ボナパルトが政治権力を得ることができたのかを分析するところまで踏み込んでいるところに大きな意義があるのだそうだ。
書き出しが有名で、とても面白い。これがどっかで引用されていたので読んでみようと思ったのだ。
「ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と」
正直内容は難しかったが、巻末の柄谷行人の付論が面白かった。
この本は、歴史の反復性を論じているものだ。
『資本論』は絶え間ない差異化によって自己増殖しなければならない資本の反復強迫、それが不可避的にもたらす恐慌や景気循環を原理的に解明しようとしたもの。
貨幣に当たる場所、皇帝の座のようなものが反復的に求めらるような、「代表するもの」と「代表されるもの」の関係が恣意的であるがゆえに、代表するものを見捨ててボナパルトを選ぶということがありえた。のだとさ。
ファシズムやそのほか普通選挙制度が整った後でも権力の集中するような現象を読み解くうえでもこの本には意義があるのだろう。いつか再読するね。
【読んだ本メモ】高石宏輔『声をかける』(晶文社)
ナンパヤローと、ナンパヤローに声をかけられて関係を持った女たちの多種多様な孤独が描かれた小説(なのかエッセイなのか)。
主人公はスカしたナンパヤローだと思えなくもないが、知らない人に声をかけようと思う心理ってどんなだろうなと想像するのは面白い。
最後の女の話だけはちょっと「声をかける」からは外れた展開になっていく感はあるけれど、声をかけることを課している男に興味を持った女の心理を描いているからまぁおかしくもないか。
男目線からも女目線からも話のネタになるポイントが多いので読書会向けの本かもしれないけど、僕はそんな明るい場で恋愛がらみの浮いた沈んだ話したくないので課題本になっても絶対行かないわ……
よくあるナンパブログも文章がうまくて面白いのもあるけど、多くはテクニック的なところがテーマの中心となっている(ような気がする)ので、これは似て非なる読み物だといてる。
孤独を埋めるために他人を求めるのか、自己満足のために求めるのか。
多くのナンパに興味ない人間からすれば勝手にすればいいだろうって思いつつたいへん嫌悪するような内容かもしれない。
とはいえ僕は「声をかける」ことが非常に苦手な人間なので、ナンパヤローだからといってバカにできたものではないのだ。ナンパどころか飲み会で初対面の女の子としゃべれないもんね。これはだめですね。致命的だ。どうすればもうちょいまともに人とコミュニケーションを取れるようになれるのだろうか……と思った時に、同じ著者の書いている別の本がヒントになりそうだったので買ってみた。読んだらそれはそれで、別に書く。
「国民全員が組織委員会」発言で炎上した椎名林檎が再び東京五輪特別番組でコメント! その内容は… を読んだアイコーカの一意見
タイトル長えなぁ。
この記事を読みました!
釣り記事に班のするのはマジレス厨みたいでイヤなんですが、僕も椎名林檎のアイコーカの端くれなので記事のタイトルにリンゴとついていればついつい読んじゃいますし、読んじゃったものはしかたがない。採点するよ!
まず感想としては、全体としてなにが主張したいのかわかりません。
なんかオリンピックのことが嫌いっぽい内容だったので、この編集部にはオリンピックに嫌な思い出がある人がいるのかな?くらいに忖度してあげることしかできなかったよ。
主張もなく、妄想みたいなデタラメ解釈の展開、これはいったい誰に向けて書いた文章なんだろうか。これを読んで「ふーむ、なるほどね」と共感したり理解を示すことができた人がいるのだろうか。すこぶる、謎ですね。
ひょっとしてあの件が関係していたのだろうか?
のあたり、ひょっとして、ツアータイトル*1を絡めたダジャレにしたかったのか……?と疑っちゃいましたが、深読みすぎるだろうか。すぎるね。ちなみに、あの件とか関係していないと思うよ。
とでも言わんばかりの発言をしたのだ。
こういうデタラメな解釈をするのはやめましょう。「とでも言わんばかりの」とか、ストーカーが「俺のこと誘ってると言わんばかりのこと言ったじゃないか」とか言うのと同じくらいヒドイです。真面目なアイコーカを煽ってやろうと言わんばかりの記事だよな。
東京オリンピックに向けていろいろな問題が次々と起こってるどうのこうの、は確かなんでしょうけど、それとリンゴの音楽監督としての仕事は別問題じゃない??
って理屈は子供でもわかると思うんだけどね。オリンピックへのネガティブ要素とリンゴの発言を無理やり結びつけてるあたりが読者の不快感を煽っているのだね。わかるとも、僕も人とケンカするとき、こういうテクニックは使います。ただ、不特定多数が読むオープンな媒体でそういう書きっぷりをするのは正直ダセエと思います。個別の問題について論じたいならそれを指摘すればいいわけで、指摘する能力がないなら黙っていれば? リンゴを引き合いに出すのは無意味だと思いまーす。
筆者さんにはそんな認識がなくて、ご自分のツイッター感覚でこの記事を書かれたのかもわかりません。そうだったらゴメンなさいね。まぁそれならご自分のツイッターでやれよってかんじなんだけども。
リンゴが言った「国民全員が組織委員会」は、僕は「みんなでガンバローぜ」くらいの意味で言ってるのだと思ったんですが、すっごい難しい解釈をなさる方々もいらっしゃるんですね。前にもそんなこと書いたけどね。気色わるいですね。
the-midnight-loser.hatenablog.com
てか、僕も上の記事書いておきながらまだハンナ・アレントの『全体主義の起源』すら読んでいないので、偉そうなことは言えませんね。
あ、この記事の「全体主敵発言」と書かれているところは「全体主義的発言」の誤字ですかね?ですよねー?
丁寧な仕事を心がけてくださいね。一度記事を書いたら、アップする前に二回くらい見直しをしましょう。僕も誤字脱字多いんで偉そうなこと言えないけどね。基本ですよね。
エスノセントリズムってなんだろう!?知らない言葉だ!
エスノセントリズム(英: ethnocentrism)とは、社会進化論者ウィリアム・サムナー (William Graham Sumner) の造語で、自分の育ってきたエスニック集団(族群)、民族、人種の文化を基準として他の文化を否定的に判断したり、低く評価したりする態度や思想のこと。
ってWikipediaには書いてあるんですけど、そういう意味ならリンゴの発言は「エスノセントリズム丸出し」ではないと思う。ぜんぜん違うくね? 無理して難しい言葉使わなくていいよ……ってかんじだよね。
つーかこのサイトは「本と雑誌のニュースサイト」と銘打っているが、普段どんなレベルの低い本や雑誌を読んでいらっしゃるのだろうか??
この記事の内容ではいったいどんな「知」を再発見しているのか、教えてもらいたい。あ、「エスノセントリズム」を使ってみたところあたりかな? そうに違いない。
こんなテキトーな記事を書いてお金がもらえる仕事、やってみたいなァと思いました。僕のほうがこの記事よりは面白いこと書けると思いまーす。(結論)
校則の存在意義についての一考察
女子高生の染髪強要事件が話題なので、僕も乗っかって少し書いておこうと思う。
校則に論理的な根拠なんてない。
ではなんであんなバカみたいなものがあるのか?なぜあんなバカみたいなルールに付き合わされねばならんのか?斯く言う僕も高校生のときいきなり明るい茶パツにして行ったらめちゃクソ怒られた恨みがある。ムカついたねえ。
そこでこのたび校則の存在意義についてあらためて考えて、きっとこうなんだろうなァという解釈をしてあげてみた。大人になってからわかることってのもあるわけだな。
一般に「コミュニケーション能力」というと、
①論理的にものごとを伝える能力
②空気を読む能力
という、実質正反対なふたつの意味があると思います。
企業の募集要項に「コミュニケーション能力のある人を求めます」とか書いていますが、社会で求められるのって、明示されていないけど①②の両方でしょう。
学校のお勉強では前者①が鍛えられ、校則ってのは後者②を鍛えるためにあるんだろう。
ってのが僕の意見なんだよね。
校則は空気を読む訓練のために存在するもの。
この結論が妥当かどうか、考えてみてほしい。
だってだって、校則が本当に意味のある内容を持っていて、学生が従うべき規範であるならば、全国統一基本校則のようなものを国が制定でもしてしまえばいいことではないか。*1それがなくって、ただ学校ごとに校則が定められていているんなら、校則の反映された生徒が相対化されるのは自明ではないか。
独自ルールを守らせるための訓練であるとしか思えない。
たとえば「地毛登録」「地毛証明」の教育効果は、「ぼく空気読んでますよ~~~」と主張するための練習であるということだ。
そして、いかにルールの隙をついて生きるか、その勉強をしているのだと理解せなばならない。
※だから「服装や髪型髪色を校則なんかで縛らずに自由なファッションを認めさせてやれだ」なんて批判は僕の説からいうと的外れだね。
(校則で拘束ってwwwwwwwwww)
よく、「ズルいやつらは校則を破っているのに怒られず、真面目な人だけ損をしている」というガキの主張が見られるが、これもまた僕の説に則っていえば、そりゃそうだよってことになる。
学校を出たら、社会にでたらゴミ虫のようにズルい人間がわんさかいるんだぞ?
校則すらこっそり破れないようじゃ社会のゴミ虫に負けちゃうぞ、って学校は教えてくれているのだ。校則はそのようなものだと解釈せねばならない。校則の破り方がわからないというのは、数学がわからない英語がわからないと言っているのと同じことなのだ。勉強不足なのだよ。
というのはまぁ半分本気で半分冗談なんだけど、件の染髪強要事件はどのように解釈すればいいんだろうか。
何度も言うけど、校則に根拠などない。
スカートの膝上何センチだとか、なにを根拠に決めたのか、ご説明かなう先生はいらっしゃるのかな?古来よりスカートの丈とスピーチは短ければ短いほうがよいというぞ?
はじめから根拠のない校則なんだから、いくらでも例外を設けられるに決まってんじゃん。
それができないなんて。相対化するためのツールでしかない校則を絶対視しちゃったなんて。なんという愚かなことなのだろうか。先生がたは校則の存在意義なんて考えたこともなかったんだろうな。
というわけで、件の先生がたは、相手がたまたま社会的に弱い立場の高校生だったからドヤれていただけの、空気の読めないコミュ障な大人だったのですね。(結論)
*1:ないよね、そんなの…?よく知らずに書いてるよ
精神と身体のどちらが先行するのだろうかってことについて
むかし読んだまんがのショムニで、千夏が異性関係に消極的な佐和子を焚きつけるときに言ったんだったと思うんだけど、「身体で始まる大人の恋愛しようや」ってせりふがあった。*1