アサヒ死ンブン

死骸ブログ

マジ(真剣)に精察しろ

諦めたらそこで試合終了だよ(明言されていないけれど、だから諦めずに最後まで戦うべきだ)というのはよく言われることだけど、一方で経済学的には、観はじめた映画がクソつまんない場合はどうせ映画代は返ってこない「埋没費用」なのだからとっとと映画館を出てほかのことに時間を使った方がよい、とも言われる。僕は恋っぽいことのために戦えないので諦めて試合終了だし、恋っぽいことのために時間を使えないしあらゆる費用が埋没費用のように感じる。

 

「天気の子」はすごく恋っぽかったし(すごいよかった)、さいきん読んだ古川日出男の『二〇〇二年のスロウ・ボート』は青春時代の恋っぽい思い出を振り返るはなしだったし(すごいよかった)、まわりには恋っぽい付き合いを経て結婚するカップルがたくさんいるし(すごいよかった)、世界は恋っぽいものにあふれている。

 

品質の悪い在庫の記録をしておこうと思って
「写メ撮っときますよ」
と言ったら、同僚から
「"写メ"って死語らしいですよ。写真撮ってもメールしないじゃないですか」
と言われた。
納得いかなくて
「は? "詰め腹を切らせる"って言葉、実際には腹切しないけど言うやろ?言葉だけ残ってるパターンやろ?それと同じちゃうんか?ちゃうんか?か?」
同僚は苦笑、スルー。さらにその理屈でいうなら恋はもう存在しないから恋は死語じゃないの?と言おうかと思ったけど、どうやら恋が存在しないのは僕だけなようなので、ここで僕が苦笑。

 

恋っぽいものは不要だし急かされても煽られても結婚したい気持ちはいっさいわかないが、まわりのひとがサラッとできていることが自分にはできないときにマジで他人との断絶を感じるんだよな。こどものころ空中逆上がりができなくてまわりと断絶を感じていたのと同じたぐいだ。

 

(自覚していなくとも)世界が自分ひとりで完結しているひとは世界との繋がりを考えることもなく、見たままのものがイコール世界なんだと思っていてそれで世界が成立している。彼らが読む本は自分(世界)のバージョンアップのためのものなんだろう。
僕は自分のそとに世界があって世界と断絶を強く感じているので世界との繋がりを求めて色々やっているけど、まったく繋がれる気配がないので、やはり世界はないのかもしれない。自分しかない、と考えるのが正解なのかもしれない。
それとも世界への繋がりを求めているつもりなのに"のれんに腕押し"なのは、やり方が悪いだけなのかなぁ?


「人生の不自由展」を開催したくなってきました。