アサヒ死ンブン

死骸ブログ

煩悩無量誓願断

幼少のころから人を誘って遊んだり出かけたりすることが地獄的に苦手だったもので、高校より前から長く付き合っている人間はもはやいない。ZEROだよ。僕以外の同級生がすべてみな死に果て申しただけかもしれない。歴史的にただでさえ誘うのは苦手なのに誘っても誰も乗っときてくれないことばかりだったので、いつしか誘うことが面倒になりひとを誘わなくなったし、同時に誘われることも億劫になって断ってばっかになっちまった。おかげで単独行動スキルは上がって大学は一瞬で卒業したし就職もひと苦労かふた苦労でできたってかんじ、転勤しても寂しさは微塵も感じず、勤めていたブラック企業は孤剣にて討ち、転職ガチャは自力で引ききった。国に誘われたけど無職期間の年金も払っていない。

いまも日常において出かけるときいつも誰も誘わないしほとんど誰からも誘われない単独行動ばっかなので、どこかへ「行こう」という気持ちがなくなると、それまで好きで通っていた店もパタッと行かなくなっちゃう。これはよくないな。酒も好きなのにひとりで飲みたいと思わなくなったので、ちかごろどこにも全然行かなくなっちゃった。

「◯◯したい」という気持ちをできるだけカットして精神的にミニマルな生活をするように工夫してるから、しんどさの軽減と引き換えにつまらない人生になっちゃったんだ。結婚したいとか思えなくなったのもこれだな。誘えないし、誘われない。その気持ちが根底にあるので、どうしても信じられないし、信じられているとも思えないわけだ。人間関係のつながりが納豆さながら糸地獄としか思えないのだ。

べつに友達がいないとか結婚できないとかはどうでもいいんだけど、ただひとつ困るのは、ひととの約束がないと朝起きられないことだな。

アサヒの黙示録

《驚かないでください!》という文言の見出しは特に異国語翻訳系の広告に多いように思うけれど、往々にしてその内容には驚くべき仰天の内容が書かれていたと思えたためしがないな。内容に興味が持てなかったり、効能が嘘くさすぎて驚けなかったり、内容に対してキャッチコピーが大袈裟すぎたり、さまざまだけど。

なにかにたいそう驚いた記憶があまりないのだけど、ひとつ、むかし、好きだった女の子(お互い付き合いたいという方向にいったわけではないがチョメチョメっとした関係があるくらいには仲がよい)が、主に知り合いばかりの集まった複数人での飲み会において、佳境の盛り上がってきたあたりで「驚かないでね…」という前置きの上で、実の兄弟とセックスした話をはじめたときはちょっぴり、いや、けっこう驚異だった。当時の感想としては、たしかに驚異ではあったが、一方で(その兄弟以外の)ほかの男とのセックスの話をきかされるときのような嫉妬心は湧き起こらなかった。うーん、肉親なら嫉妬対象外かな?みたいなわけのわからない混乱を抱いたということかな。"寝取られモノ"を見たときのような倒錯的な欲情も起こらず、ほんとに驚いたときには感情も希薄になり判断力も欲望も無化されるようなこともあるのだと理解した。

歳を経るにつれて上のような驚異も世の中にはちょいちょい転がっているのだと知っていったけど、同時に若いときのように驚きを驚きとして受け取ることもできなくなってしまったようだ。感受性、そこになければないですね。言い方がダイソーの店員みたいだな。

オレ様の全力

自分に酔ってる悲劇のヒロインがキライみたいなこというひとがいるが、そんなんまだいいほうじゃねえか、僕は自分に酔ってるオヤジたちと仕事をする羽目になって苦労した思い出があるので、"ヒロイン"ならマシだろうよ、オヤジの見苦しさを知ってくれよ、せめて"ヒロイン"に閉口したかった。

新卒でIT戦士屋さんになってから大人の社会でいろいろなひとを見てきたが、この世には「このプログラムはオレが組んだんだぞ?ミスなんかあるわけないだろ」と言いがちなイキリITおじさんがたくさんいることがわかったのだ。イキリITおじさんが組んだプログラムは、イキリおじさんがやるべき最小単位のプログラムテストである単体テストすらサボっててクソバグが見つかりがちなので、こいつらの言は信用しないことにしているのだ。驕りすぎだろ。マジで「このオレが」って言い方をするからな。アニメの見すぎなんじゃねえか?

そのくせ、イキリオヤジ◯◯さんの担当箇所からクソみてえなバグが発覚したとき「◯◯さんの作ったプログラムにバグあったンだが?」って迫ると「うう…」とかうめき声をあげやがって、せめて「ば、バカな……まさか、このオレ様が敗北するとは……?」とか最期まで演技しろやって思う。

就職活動で苦しんでいるセイガク(学生)さんたちを見るにつけ、社会にいる大人なんか珍粕(ちんかす)ばっかやからリキむことないぞって言いたくなるわ。あとIT業界は、ベンチャーはよく知らないけど、もともと男社会っぽい業界だったから会社創設が古いほどホモソーシャルな傾向にあると思う。いっけんロジカルな考え方する人間の集まる業界かと思いきや、ホモソーシャル、体育会系(笑)、キモ・オタク、これらが入り混じった、珍粕のにおいがする珍粕業界だ。めちゃくちゃヘイトな悪口言っちまった。IT業界屋さん、すっかりキライになったんでな〜

血痕、血判、決死

少しまえにパパ活(実父と会食)したとき、僕の弟の結婚についての話題になり、弟は真実一路の道を行きまもなく同居新婚生活に入るのだと知らされた。僕は、実弟本人から結婚についてなにも教えてもらっておらず、"まもなく結婚する"というウワサばかりはどこからともなくきいていたものの、それはデマゴギーだろうとずっと疑っていたのだった。しかし嘘ではなかったのだ。

「おまえにはないのか、その、結婚の見込みとか」と問う実の父親に対して「あー、ナイナイ」とにべもなく即答するのはいささか親不孝だったかもしれない。が、そういうのいっさいナイナイだから仕方がナイナイ。

送られてきた結婚式の招待状には、弟の嫁の氏名がフルネームで記載されていた。神秘に包まれたベールの一端がめくれ上がった感じ。正確な名前すら知らなかったんだよ。しかし写真は添付されていなかったので、まだ貌(かお)はわからない。

弟については仲が悪いわけでもなし、正直勝手に幸せになってろよという思いが強いが、ゲマインシャフトだから、弟の結婚式には(アホのふりをしてご祝儀を持たずに)行こうとは思う。招待状の返送用ハガキには出席にマルをしつつ、メッセージ欄には「結婚生活において大切なものは3つの袋であると言われております」と書いておいた。3つの袋が何を指すのか、堪忍袋だろ(これがオチだった気がする)、あと残りのふたつがわからない。僕は女の子の涙袋が好きだよ。乳袋も好きだ。

式当日、あるいはその後日の会食などにおいて、今度はママ(実母)から「アンタは結婚しないのか(笑)」と聞かれる可能性は大いに考えられる。憂鬱だなぁ。まえにパパにしたようなナイナイ回答はさすが親不孝だから、なんとかやんわりと親の希望を断てる回答を今から考えているのだ。

そもそもあらゆる共同体に属することがイヤになったので、とうぜん、生活の共同体である家族を持ちたくもないことを理解してもらわなければならない。一方で、人間関係資本が豊かで、孤立していないことも示す孝行的配慮もせねばなるまい。社交を求めているのだ。ま、実際はトゥイッターのなかだけの社交だけど。現実世界は断絶の繰り返しサ。

僕はたしかに、まいにちまいにちクソみたいなトゥイートばっか垂れ流しておりますけど、冷静に考えると学歴も職歴もあってめちゃくちゃまともに生きてるのに、どうして結婚の気配がないのかわからないな。健康で文化的な最高水準を生きてるのに。文化レベルが低いからダメなのか?履歴書に書くべき賞罰"ナシ"なのに。がないのがダメか?罰の"箔"があったほうがよいのか?お金も有価証券もあるのに……これは小銭だからダメなんだろう。わかってるよ。

かように、僕は誰からも認めてこられなかったので、僕もこの世界のことを認めませーん!破壊します!(SEKAI NO OWARI

また僕は『嘔吐』する

【クソなぞなぞ】
Q.自動で口から胃の内容物を吐き出すことってな〜んだ?
(解答は記事の一番下にあります)


朝から活動しようと意気込んで早起きしてい家を出たら、目的地へ向かう電車のなかで胃腸が突然ツラくなって、マロニエの樹の根を見たところで吐き気こみ上げ、駅のトイレで吐きまくって一日の予定が台無しになったのは本当に意味わからなかった。ごくたまにこのように腸の具合が悪くなった影響で胃も悲痛な打撃を受けてこんな目に遭うことがあるのだ。おなかの調子が悪い時は無理をしないのが一番だとも。「我慢して行けるところまで行ってみる」という思想は良くなかった。焦るとものごとは上手くいかない。焦ったときは、やることを極限まで減らす、ウザいものをシャットアウトする。これが基本だね。

むかし大手音楽雑誌に有名な"毒舌"(笑)レビュアーで「サルトル言うところの『嘔吐』」が決めゼリフなひとがいて、こいつがサルトルを読んだこともないだろうし毒舌というかただ悪口の列挙でなんのレビューにもなっていない。ツイッターがなかった時代だから娯楽のない若者にウケて生きていられたんだろうな。いつ死んだのかは知らないけど、雑誌が一方的に情報を与える環境が崩壊したのち、そんな珍粕(ちんかす)をおもしろがってっからまともな音楽も音楽批評も育たなかったのでは?としか思えないが、死人のことなんか考えるのは時間の無駄なのでどうでもいいですね。


A.嘔吐(auto)

マジで・ルーザー ・狂う・寸前(略してマルクス)

カール・マルクスは人間と動物の違いを「生活手段を自ら生産できるか否かである」と考えたが、これは大人と子供の違いにも当てはまるなぁ、と思うのだ。よく(?)子供とは?大人とは?みたいな間抜けが議論がトゥイッターで行われてることがありますが、これで説明すると割りと明快じゃねえすか。ガキのころは親の経済力に抑圧される生活がイヤでとっとと大人になりてえと思っていたよ。

「子供の豊かな感性」みたいな大人の言い分も片腹痛えンだ。本気で言ってんのん?未熟なものの中から大人が良しとしているものを選んでるだけのことじゃねえか。僕は子供時代の作文や美術だか図画工作の授業なんかすべて大人のクソルールに抑圧されているとしか思えなかった。いまでもそんな大人たちの抑圧を恨んでおり、隙あらばかつての大人たちの背中を刺したいが?あぁ、ここに「大人を殺したいと思う気持ちを持つ者が子供である」という新定義が完成しましたね。

つってもこんなこと書いておきながら僕は学生時代は精神が衰弱していたので引きこもってアルバイトもしてなかったんでつが(爆笑)

アサヒのヒはヒラガナのヒ

若い頃は文章に於いて漢字に出来る箇所は凡て漢字で書く様な痛い学生生活を送って居り、此れは椎名林檎のオタクが悉く皆が通る道だと思うんだが、ちかごろはひらがなで書いても読みまちがいの起こりえないことばはすべてひらがなで書きたいと思うようになってきた。ひらがなのほうが読みやすいよな。読みやすいと思うようになったのか。脳みその情報処理能力が落ちているのかもしれない。情報処理能力が落ちているといえば、うちのパソコンはボロすぎるせいかな、「令和」が変換できないし、さっき上の分を書くにあたって「可読性」って言葉を使おうと思って変換しようしとしたら「可毒性」にしか変換できなかったんだが、可毒性ってなんなんだよ、そんな言葉はねえよ。な?

ひらがなで書きたくなっている、というよりは、漢語よりもやまとことばを使いたいきもちが強まっているというほうがただしいかもしれない。すこしはなしがそれるけれども、やまとことばでいうとひとつ、短歌のお兄さんと話したことがある。現代短歌においてなんで未だに古くせえ言葉が使われてんだろうな?ってのはまぁ、それに代わる言葉が生まれ定着してないからだろうとしか言いようがないと思うんだが、やっぱヘンくないですかね、短歌用語の古くさいことば。たとえば「相聞」が恋愛ジャンルのことを指すとか古典の授業の九割を寝てすごした僕みたいな人間には馴染みがないし、「詠草」ってのは詠んだ歌のことだというが音だけ聞いたら軍隊用語の「営倉」が先に浮かぶし、「吟行」って僕は愚かだから読めないし音を聞いたら「銀行」としか思えない。もっとイイカンジに言い換えられるやまとことばはないんすかね。まぁないからみんなこれらを使っているんだろうけど。えらそうなことを申し上げましたが僕は短歌をめったに作らないし、文句をつける意味もないし、まじめなひとに刺されそうなことは言わない方がいいのかもしれないな。