アサヒ死ンブン

死骸ブログ

フェイク・プルーフ・フール

小学校のとき国語の授業で4、5人ひとくみの班でひとつの物語を交代で連続して書いて完成させなさいという課題が出て、わ、おもしろい!と思ってみんな盛り上がって意気揚々と臨んだけれど、いざ取り組んでみると結局たいしたものは書き上げられなかった思い出がある。僕だけの問題ではなく、他の班もねこちゃんだとかかえるくんだとかの冒険みたいな同じような話ばかりだった。虚構を生み出す能力が未成熟であり、かつ、事実の積み重ねである経験の少ない子供にはたいへん難しい課題だったわけだ。

 

「ええッ!BくんとC子ちゃんは付き合っていたのかい?!」渾身の驚きを示す。笑わないように、笑わないように。
「え、A(あさひ)くん、気づいてなかったの?本当に?」Cちゃんが切り揃えられた前髪の下の大きな瞳を見開いて聞いてくる。隣に座るBには見えないだろうが、笑いを堪えているように見える。
疑いを含んだ声色で判官、Bが問うてくるのだ。
「マジかよ、しかしA、おまえはC子にカレシがいると知って関係持ったんだろ?これは大きな罪悪であり、償われるべきだろう。殺していい?」
「待てや、待て待て。まずカレシの存在などC子ちゃんから聞いていないし、関係ってなんですか?」
「聞いてないわけないだろ、そうは問屋が卸さねえ」
「問屋なんですか?」
「問屋ではない。C子は俺たちのことちゃんと言ってたんだろう?」
「言ったよ、つきあってるって、一緒にエレクトリカルパレードに行ったって、エレクトリカルとエレクトリックはどう違うの?って話したことも言ったよ」

「C子ちゃんは確かにエレクトリカルとエレクトリックの違いを議論したとは言っていたが、誰と行ったかは明示していなかったよ、てっきりひとりで行って自問自答していたのかと思った」

「そっか、主語がBくんであるとは言わなかったかもしれない。誤解させてごめんなさい」

「おふたりの関係についての認識は、この通り、誤解があったようですね」

「しかしそれを譲っても、おまえたちふたりきりで一夜を過ごしたというのは疑いなき事実であり、これは永遠に疑えるであろう」
ここで僕は悪魔を呼ぶことを思いつき、C子ちゃんに目配せしつつ、
「おやおや?我々ふたりではなかったよ、もうひとり、共通のお友達のペロ子ちゃんがいたんだ、自明だと思って言ってなかったけど、いたんですよ」
「そうだよ、疑惑の夜にわたしたちと一緒に朝まで飲んでいたペロ子ちゃんにきいてみましょう、そうすればわたしたちのアリバイは証明されるはずだわ、ちょっと電話するね、ぴぽぱ(携帯を触る効果音)、ツー、ツー(電話をかけている効果音)、もしもし、わたし、しーこちゃん。いまあなたのこころのなかにいるの。ペロ子、たったいまね、あさひくんが人道に対する罪と平和に対する罪で処刑されかかっていてね、え、そのまま死ねばいい? ま、そうかな、それもいいね、くすくす、いやいや、マズくて、証人喚問するので、いまからこられる?いまね、えっと、新宿の…………」

 

そうしてやってきてくれたペロ子ちゃんの機転の効いたフェイクニュースによりBは我々のアリバイに加えて「C子が愛しているのはBただひとりであり、それは千夜に八千代に苔のむすまで変わらぬ愛である」という神話まで信じて、詫びて、飲み代を多く出して帰ってくれました。

 

最後に登場人物解説をすると、Bくんは「良くない読者」である愚か者で、C子ちゃんこと鴨橋椎子(かものはし・しーこ)ちゃんはとんでもない浮気女で、ペロ子ちゃんはとんでもない嘘つきでルールブレイカーな悪魔です。現実はこんな綺麗に問題が片付くことはないので、もちろんここで挙げた例は全てがフィクションですが、虚構の積み重ねによってひとつの現実ができあがるというのはよくある話だと思います。この記事の教訓は、現実を歪める椎子も現実を捏造するペロ子もあなたの近くに潜みうる見えない「脅威」であるということです。

ボーダー・オブ・アサヒ

「境界を越えるのはいつだと思う」
「今日かい?」

 

ちかごろはなにかと白黒つけたがるのが世のはやりで、悪しきインターネットにおいては特に正しさばかりが追い求められて、賛成か反対かがすなわち敵か味方かの分断になりがちなのが非常によくないと思うのだ。あらゆる境界はあるようでけっこうデタラメで、明確に引かれていないものもあれば踏み越えても支障のないものもたくさんあるのに、みんなかなり気にして生きているようだ。ほとんどデタラメななかでただひとつ越えてはならない境界は生死の境だけで、これを他の境界とゴッチャにするのがマジだめ。ダメダメ。「美しいうちに死にたい」みたいなのがその典型で、美しい花はあっても花の美しさなんてものはないし、醜さ美しさの境界なんて冷静に考えるとないに決まってんじゃん。それはたぶん、生きることの悲しさつらさめんどくささを封じ込めるための死に意味づけをしていることなのだ。これは実際にかつて存在した、美しいままに死んでいって肉体は燃えて灰になった者に対して言いたかったことなのだが、生死の境に阻まれておりいまだ伝えられていない。

 

ところで僕は越えぬべき生き死にの境界は明確にわかっているのだけれど、家族友人、恋愛、そのほかの人間関係における登場人物がどういう線引きをして生きているのかわからず、彼らとの関係がうまくいかない。少しはなしが逸れるけれど援助交際もできない。倫理の境界の問題ではなく、金額の根拠がわからないという問題で。好きな女(脈はない(死んでいるという意味ではない))との会話において、
「コミュニケーションツールのラインの直訳たる線は、我々を繋ぐことを意味するのではなく、我々のあいだの永遠に交わらない境界の比喩なのかもしれないな」と意見したところ、
「は?」と返され、
「僕はおまえのことが好きなのにおまえは僕のこと好きにならないってことなんですが」
「それはそう」
断絶。終わってるね。

 

せをはやみ、いわにせかせか、たきがわがわ、わかれわかれて、あわあわあわあわ

ひさしぶりに会ったともだちや知り合いやの数人から異口同音に「そろそろ彼女できた?!」って聞かれたが、「一生むりでちゅ😅」としか返答のしようがねンだよな。「そろそろ」ってなんなんだ。僕は常に世界で一番色恋から遠い極地にいる人間だぞ?いったいここはどこなんだ?これは怒られそうだからくちに出しては言わないが、ひとより多くフェミニズム社会学的な理論や小説を読んで、多くの問題について理解を深めることはあるし、ナショナリズムジェンダーの関わりなんかは女の側だけの問題ではないこともよくわかっているが、運動にはコミットできないし共闘もできない。どうしても根源的なミソジニーがあるというか、でも、ホモソーシャルな男社会の気持ち悪さもいやというほどわかるし、さらにその一方で多くの人間がそんなこと気にせず(知らないうちに搾取されて)生きているんだなってのも見てきた。いろいろ考えていると、僕はどうにも人間みんな嫌いな気もするので、よのなかなんとかしたいなという気持ちがやっぱ持てないな。個人レベルで人間との関わりが希薄だから、よのなかのことを考えられないのかも。

これは「完全にダメ」で、テン年代が終わりトゥエンティ年代が始まるいまこそ気持ちを改めないといけないなと思った。そこで大切なのは、前にも同じことを書いたりひとにしゃべったりしてることだけど、「良い読者」にならなきゃいけない。読者というのは、「観客」とも言い換えられると思う。どういうことかというと、良い読者・観客というのは、読んだものの内容を理解している・観ているもののルールを理解しているという前提で、空気が読めるということだと思うのだ。空気というのは、言い換えうるのは行間であり文脈であり雰囲気、書かれていないこと、言及されていないこと。そういったものの包括的な、なんとなく、な、すべて。空気を読む、という言葉はなにかと否定的なニュアンスで使われがちだけど、うまく生きていくうえで必要な技術だよ。まぁ、僕はまぁまぁうまく空気読めてると思っていたのに人生いっこもうまくいっていないが。人生オワオワリ。でも、せめて、良い読者に。

あと、逆に良くない読者のことも考えなきゃいけないな。良くない読者はわりと簡単で、ものごとやコンテンツ、人間関係、あらゆることにダメ出しばっかする奴はまずダメで、減点方式でしか語れない人間はダメ、ダメダメのダメで、そういう人間は2020年を迎える前に全滅するべきである。即刻死すべし。七孔噴血、撒き死ねい。

インターネットが滅亡して三千世界が終わるまで君のことを愛すよ

今年もいちねんを振り返って総括してみると「完全にダメ」で、楽しい毎日、豊かな生活、生きている喜び、幸せ、そういったものからほど遠い人生だった。なにひとつ得られなかった。なんだか毎日ずっと忙しくって、ほんとに忙しかったのかよくわからないが、なにかしなきゃ、なにかしなきゃと焦りに追われ、ふと落ち着いてものごとを思惟する時間は百貨店のエスカレータに乗る時くらいしかなかった。なにかしなきゃの焦燥に追われて行ったなかには冒頭に列挙したものを得るための行動はなかったわけだが。なにをしても得られないんだよな。みんな楽しそうに生きてるのに、同じようになれない。十年前からずっと同じようなことを不満に思っていた気がするし、二十年前もそうだった気がするし、もしかすると世界は五分前に誕生したばかりなので五分しか思っていないのかもしれない。とにかく、生きていてひとつも楽しくないです。こういうのを人生終わってるっていうのかな?

 

とはいえ、生きていて楽しくないと思っていることはすなわちいますぐ死にたいという欲動を意味するわけではないし、というか、人並みを求めてもムダだということは思い知ってるので諦めておりいまさらどうでもいい、でも、でも、でも、普通に生きてきたはずなのに上手くいかないのはなにか原因があるはずだ、なにが悪いのかな?ってことはちょくちょく考えているんだよ。なにが悪いか?

 

結論は、やっぱ、インターネットが悪い。

 

インターネットであらゆるものが(見かけのうえでは)フラットに繋がっているので(大嘘だよな)みんながクリエイターになろうとして必死になって自己発露にばかりに腐心して、人間関係に摩擦を生むわ、たいして良くないものがイイネと言われるわ(インターネットにおいてひとは自分がいいと思ったものではなく、人々がいいと思うだろうものにイイネをつける、ケインズの「美人投票」の理屈が働くため)、そのくせみんな僕のことは無視するわ、みんな僕のことを好きにならないわ、電車のなかではお客様同士のトラブルが発生して電車が止まる(これを書いてる時に起きた)。
さらにいうと、インターネットで自分のことを出していけるようになったぶん、みんな読むほうが疎かになってると思うのだ。ここでいう読むは文字を追う、という意味ではない。文字を追うことは猫にでもできる。読んだ文字のあらわすことを、文脈を、行間を、書かれていないことを読む。それができないというか、文字に書かれていることしか読まないというべきか。だから、みんな書かれた文字の揚げ足をとってとられて諍い炎上になる。
だから、よい読者にならなきゃいけないな。書物でもWEBメディアの記事でも人間関係でも、じっくり読んで、読んだ先のものをあらゆる文脈に結びつけられるようにならなきゃいけない。生命を削っていろんな本を読んだり映画を観たりしているおかげで、すこしずつできるようになってきた。職場でもそれ以外でも人間関係はわりと円滑になってきた。マジマジのマジで。

『テレビを消しなさい』というタイトルのマンガがあるけれど(まだ読んでいない)みんなが必要なのはインターネットを消すことだよな。さらにいうと嫌いな奴を消すことかもしれない。「金を払って嫌いな上司に酒を注がなければならない会社の忘年会が嫌だ」という嘆きは完全に間違っていて、忘年会は爆笑するためにあるのだしウザい上司は殺すためにいるのだから、ウジウジしてないでどんどん殺して爆笑するべきなんだよ。

 

こういう暴力的な発想になるのも、やはり、インターネットが悪い。

 

お死まい。

 

 

好きな女にアカウントをミュートされている話

日本語の文章を書かないと日本語を忘れて言語を失ってしまいそうなので、これからまいにち小話を書きます。よろしくお願いします。今日は、本当にあった悲しいはなしを書きます。


もう十年ほどずっと好きな女とツイッターの相互フォロワー同士なんですけど(好きは好きでも「いつかブチ殺したい相手」という意味の"好き"です)、いくつか繋がっている僕の表裏すべてのアカウントがすべてミュートされていることがわかりました。僕は彼女のことが大ちゅきなので、しばしばプロフィールトップからツイートを遡って"いいね"(この世からおまえを消し去ってもいいねの意味の"いいね"です)をつけまくっているんです。


そんな気持ちを知っておりながら彼女は僕のことを弄び「いいねのサクラかな?みたいないいね蘭やな」という不自由な日本語のツイートとともにいいね通知のスクリーンショット画像を載せ、そこにはミュート設定表示のアイコンが点灯した僕のアイコンが並んでいるではないですか(あらゆるアカウントでひとつのツイートにいいねしまくってたんです)。ミュートされている。傷つきました。悲しいです。ブチ殺してやる。一族郎党みなごろしを決意したので、すぐに三千の兵を遣わせあやつの居城を囲み、火矢を放ったのち三方から突入、多少の抵抗は覚悟していたものの、あいつともだちおらんから伏兵はなくぼっちで瞬殺、秒速で首級をあげたわ、ざっこ😄
ミュートを解除しろ。

人生の終わりとハードモード・デスペアーランド

人生がうまくいかない。なにもかもうまくいかないわけではないけれど、怒りを発露できるときとできないときがある。仕事でクソみたいなクレーム連絡が入ったら一瞬で頭が沸騰して「殺す!!殺す!!殺す!!殺す!!殺す!!!!」って叫びながら激情に駆られたメール対応ができるのに、クソ女に騙されたときは「ま、しゃーないか……」ってすぐ諦めちゃうくせをなんとかしたいな。


クレーマー野郎どもは人生うまくいってるのだろうか?たまに笑かしよるクレームが入る。曰く「ずっと利用していましたが御社のサービスはわたしを満たしてくれません。良くしてくれません。刺激を与えてくれません。幸せにしてくれません。利用をやめます」うっせ~!!おまえのために作ってるシステムじゃあないんだが?なんでも望むもの与えられ続けると思っていたのか?おまえは一生その受け身の姿勢で生きていくのか?いったいなにを期待していた?あらゆる疑問が噴出して「殺すぞ」と返信してしまいそうになる。


「あさひくん、あまちゃんだからな。どこまでいっても常識人だし。たとえそのクレーマーさんが目の前にいても、あさひくんはそのひとを刺し殺すことはできないよ」
「うるさい、ひどいめにあわすぞ」
「やってごらんよ」
ペロ子ちゃんは短いスカートをふとももがあらわになるまでたくし上げた。
「あさひくんはわたしにいったいなにを期待していたのかな?やすらぎ?」


自分の立場をはっきりしないくせに偉そうなことを言うやつらが気にくわない。甘えてんのか?ちかごろ見かける「感慨深い」という言葉ってさ、ある話題に対してYES/NOの立場は表明したくないけど口を挟んで主張はしたいぜ!と思ったときに使うと、敵味方対立からの炎上を避けうる、じつに便利な、現代のSNS社会を生き延びる知恵として使われだした言葉のようで、じつに感慨深いな。じつが良いとも悪いとも言っていない。甘えんなとは思う。


「ペロ子ちゃん、の、は、すごく、」
「ん、どうしたの、もう、息、上がっちゃった?」
「いや、じつに、感慨深い」
「なにそれ?」
感慨深いな、なんて言ったら雰囲気悪くなる場面もあるぞ。

 

人生は他人との関係で作り上げていくものだと思うけど、どうやって作り上げていけばいいのかな。ヴァルター・ベンヤミンの『翻訳者の使命』で書かれてる「翻訳」のなされ方は、原作に似せていく(メタファーモデル)ではなく、断片である原作に断片である翻訳をくっつけていく(メトニミーモデル)ものだ、というもので、人生もこれだなって気がしている。意識高い系のひとびとの"教え"では「人生の先達となるべきメンターを見つけろ!」と言うのが常套であるが、仮に成功してる人間が近くにいたとして、そう簡単にメタファーになれるものかと。ナイナイ。ひとの真似なんて、できるわけがない。

 

「あさひくん、またむつかしいこと考えてるね。あさひくんが人生コンテニューコインをくれ続ける限り、会ってあげるよ。あれ、コインじゃなくて、ペーパーかな?お札ってなんて言うんだろう?」

 

まぁ、我々の人生は、関係は、そういうものだ。人生コンテニューコインを提供できなければ終わってしまう、金の切れ目が縁の切れ目、細い糸の繋がりは、一線断ゆるとき、落落磊磊。

トロトロ・ッコ問題

愛と恋も手に入らない人生に嫌気がさして、トロッコでこの世のすべての人間を轢き殺してやることにした。トロッコ問題だ。好きだったひとからからは、ある日とつぜん返事がこなくなった。そのひとのSNSを見ると、あらゆるひとにリプライを飛ばしている。あのひとは、多数の人間を殺すことよりもひとりの人間を殺すことに決めたのだろう。そんなことを考えながらトロッコに乗りこんだ。


「トロッコに火は入っているか」

 

これは失恋なのだろうか。愛を失ったとき、どうして「失愛」とは言わないのだろうか。「恋」は相手への好意を持っている現在形の状態で、「愛」は相手への思いがあったのだと思いをはせる過去形なのだ。愛は、つねに、あれは愛だったのだな、というふうに過去のものとして確認するもの。現在あるのかどうかは確認できないものだから、現在形として失うことはできない、ゆえに現在形として使う失愛という言葉は存在しないんだ。トロッコはトロトロと進んでいく。

 

涙が流之介「トロトロ・ッコ」

 

生きていたくないですね。めちゃくちゃしんどいときにも、だれも助けてくれない。どうしてだろう。そのつど、やっぱ、人生はおのれの気合いと鉄血をもって生き抜いてくもんやな、という気持ちがあらたになる。孤独だよ。孤独感は空腹に似ていて募るとイライラしてくる。イライラに呼応すしてトロッコは速度を増して行く。そろそろひとを轢き殺せる速度に迫ってきた。

 

「トロ、蟷螂の、斧」

 

最初の分岐点だ。左の路線には作業員が5人で作業をしている。僕をハブって飲み会をしていた、全員嫌いな奴らだ。右の路線には作業員がひとりで作業をしている。イキリツイートが目障りで、こいつもきらいな奴だ。どちらの道を進むか?簡単な問題だ。6人まとめて轢き殺す。今宵のトロッコには血に飢えている。

 

とろ火で3分

 

ロッコは進撃し、忌々しい消費税を発明した人間をバラバラにし、くだらないトロッコ問題を発明した人間を八ツ裂きにしたところで気を良くして歩みを止めた。僕は消費税とトロッコ問題が大嫌いなのだ。