メーフ・マドー

Me If Mad Oh!冥府魔道!おまえたちのことが大嫌いになったよ

面白半分

むかしから「面白半分」って言葉が大好きなんだけど、この言葉のどこに面白さを感じるかってのが、「(厳密な割合などないとわかりつつも)"面白"じゃないほうのもう半分はなんなんだろう?」って考える余地があるところだと思うんですよね。

小学校のとき、悪さをしたことがバレたヤツが学級会で吊るしあげられたじゃないですか。そんなときのよくある言い訳で「面白半分でやりました…」っての、おまえ、面白半分と、もう半分はどんな気持ちだったんだよって突っ込みたくてたまらなかったね。

明治生まれのジャーナリストの宮武外骨が『面白半分』って雑誌を作っていて、この人は本当にふざけたことも真面目なこともいろいろ書いていて、誌名には面白要素を忘れずにやっていこうという気持ちを込めていたんだろうと勝手に思っている。戦後には吉行淳之介野坂昭如が編集長をやっていた『面白半分』てのもあったらしく、永井荷風作と言われる春本『四畳半襖の下張』を全文掲載してワイセツだってことで裁判沙汰になった雑誌がここなんだな。戦後のほうの『面白半分』に携わった人々ついて書いた新書を持っていたはずだけれどまだ読んでいないな。

ものごとをなにもかも全力でやってたらしんどいよ、生きるのがつらくなってくる。なにごとも面白半分でやればいいと思う。面白半分・真剣半分、面白半分・ガチキレ半分、面白半分・諦め半分、面白半分・愛情半分。感情の割合は都度都度考えればいいと思うけど、なにかを真剣にやるにしても、なにかの敗戦処理をしなければならないにしても、半分くらいは"面白"と思えるくらいの余裕を持って行いたいですよ。仕事なんかまさにそれじゃないですかね。ツイッターも面白半分でやんなきゃ精神が蝕まれますよ。ちなみに僕は嫌いな奴をツイッターで晒し引用リツーイトするとき、面白半分・憎しみ半分の割合でブレンデッドしてやってますね。

親子①

ずいぶん前にツイッターのRTで回ってきたんだったかな、探しても見つからないので内容は定かではないが、こんな話を読んだ覚えがあるのだけど。

小学生くらいの子供が捨て猫を拾ってきて大事に育てるから飼わせてくれと訴えたところ、親が、生き物を愛でるというのは優しく撫でさすることではなく育て続けることに責任を持つということなんや、と強く諭しましたとさ。

生命を背負うとは厳しさを伴うものなんだよ~という教訓めいた意図が見え透いていて、はいはいおっしゃる通りですねと悪態つきたくなる、こころから不愉快な話だなぁという感想だったね。そんなことを言われたほうの子供はいったいどう思うだろうか?
オレだってガキやのうて働いて金を稼げてたら猫くらい自分で面倒みれるわ、おまえのような猫一匹の世話すらできない甲斐性のない大人にはなりたくない。
こんな風に思うんじゃないですかね。そう思ったところで、猫をかくまった弱みがあるばかり強くも言い返せないだろう。子供の無力さを描いた寓話だとしか思えないですね。
生命について知ったようなこと言わないで「経済的・精神的余裕がないため生き物はダメです」あるいは「猫キライなんでダメです」と言えばいいものを。

道徳じみた話がイヤだというわけでなく、子供をナメたような話が嫌いなんだな。偉そうに生命の重さだとか説いている者がまったく信用ならない。正しく飼えるかどうかは唯物論的に判断してくれや。

 

金がない

金がない。いやまったくないわけじゃない、借金もないし、細々と生きていくだけなら直ちに影響はないけれど、そんな貧乏くさい話がしたいわけではない。いま財布の中身がいくらだったかなって常にあたまのなかで計算を強いられ、千円単位で行動が掣肘さるる、そんな生活が嫌で嫌で仕方がないって話をするのだよ。
どうやって稼ぐか殖やすか掠め取るかといった前向きな考えを生み出す生産的なことはここでは一切考えないし、金を使わない生活こそが真に人間的に正しい生き方なのだといった価値転倒のルサンチマンのようなことも書かない。ただただ金がなくてむかつく、ということ、これのみ。
あっ金がないのはムカつくな、と感じた瞬間はほかでもない、自分より十も歳が下の女に飲みに行きませんかと誘われたときに「お金がないので無理です」と答えざるをえなかったあの屈辱感、もうこいつには一生連絡せんとこと思うくらいイライラしたし、こんなことでイライラするのは生涯において初めてのことであった。
どこかで金を借りればよかったとか、その女は割り勘で安いお店でいいと言っていたとか、そういうことではない。そういう外部的な要素をすべて慮外にして生きて行きたいのに、それが叶わなくなったのが嫌だということなのだね。節約すればいいじゃん、というのもまったく見当はずれ。節約したくないのに金がない、それがムカつく、ということ。

読書はお金をかけずに教養の得られるよい趣味です、みたいなことが謳われる風潮が本当に腹がたつよ。そんなものはゴマカシで、読書なんて貧乏人の趣味だろ。僕はほかにできることがないから、金がないからバカみたいに毎日読んでるんだ。クルマ持って毎晩首都高ぶっ飛ばしてるほうがいいに決まってんだろうが。有り余るほど金があったら賭博だって女遊びだってしとるわ。金がなきゃ大した遊びができない、だから遊ばないというだけのことだね。金がないばかりにこんなゴミみたいな人生なのかなって思う一方で、良くも悪くも"原点を割れない"生き方をしてきたので、一丁借金して勝負に出るか!みたいなことも考えられません。勝負できる科目がないの。なにをして生きてきたんだろうな。いままでの一切がムダだった気がしてならないよ。金がないからこんなにイライラするんだろうな。「金は鋳造された自由である」ってドストエフスキーが書いてたらしいけど、おまえ借金しまくってルーレット賭博しまくって貧困にあえいどったやろ、なにゆうとんねん、って感じですね。そのうち『賭博者』は読みますよ。金がなくてイラついてる人間、描かれているのだろうかね。ほんとにいまイライラしてるので一銭にもならないことはなにもしたくないですね。

冒頭に書いたとおりこれは金がなくてムカつくということを書き散らしただけの日記なので、誰のご注進お説教も聞く耳もちませんが、金を恵んでくれるというお話ならばきいてやってもよいです。よこせよ。坊主めくりみたいに倒した相手の財産総取りできる世界だった勝負に出ていたかもしれないが、ヒョロいので返り討ちにされていた可能性が高かったな。空想するのに金はかからないが、僕は空想ではなく現実で金に飽かせて遊びたい。

ブロック

ずいぶん前のことすぎて定かなる記憶はないのだけど、かつて「ツイッターの本質は突き詰めれば女との出会いとのツールだ」といったことを、むろん冗談半分でツイートしたことがあり、それを読んだ一部の不興を買ってしまったようであることをたまたま耳にして、その不興に感じ怒ったひとはクソだがバカがつく真面目だったのだろう、律儀に僕のことをブロックしたそうだ。これについては弁解させてほしい部分もたくさんあって、要するにツイッターで行われる議論にイヤケが刺したのが原因なのさ。政治でも倫理でも常識でも学校でも働き方でもなんでもよろしい、言い争いしてん見てたら嫌な気持ちになりませんかね。僕はなるんだよ。他人のリツイートとかいいねとかで回ってきたらみえちゃうじゃない。けんけんがくがくの議論が嫌いでいやになるんだよ。僕はそういうのしょっちゅうブロックしているよ。考えたくないので。バカみたいな議題でバカみたいなことを言い争っているのを見てそういうの一切がイヤになって、SNSの本義は議論でなく他者とのあたたかい交流ではあるまいか?アカウントの向こうに人間が存在することを意識した上で関係のつながりを求めることを再考せねばなるまい?みたいな論理を、多少のお笑い要素を交えてツイートしようと思った結果、冒頭に至るわけだね。

 

ごくまれに、一度も絡んだこともない知らない女の子にブロックされているのを発見して、「いったいどのツイートが気に障ったのかなぁ?」と悩むことがあるのだけど、考えてしかたのないことで、もしかしたら僕のことを好きになりそうになったので自制のためにあえて距離を取る意味でブロックした可能性もある。その可能性が高い。さらにこれもまた「どうせ抱けない女だし別にいっか」と思えば気持ちはサッと切り替えられるよね。これは強がりとかでもツイッターに限ったことでもなく、かつてケンカ別れした相手とかについても言えるでしょう。

 

僕もまぁプロフィールに「いたって普通の日本人です」とか書いてる奴は見るより先にブロックするので、世の人々に対してはいろいろお互いサマなところがあるのだろう。

 

お死まい。

大森靖子著『超歌手』を読んで思ったことと、アルバムリリースイベントで目の当たりにした大森靖子ちゃんのスーパーかわいさにたまげた件について

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今年六月に刊行された、"超歌手"の大森靖子ちゃんが自ら名乗る肩書きをタイトルにした『超歌手』を読んだのです。

"エモい"という単語いろいろな細かい感情表現の機微を一言に大雑把にまとめてしまうから使いたくないのだけど、この本の内容については感情大きに揺れうごかされるという意味でたいへんエモーショナルな一冊だったよ。直に言葉を紙面にぶつけて作ったような書きっぷりで、読みながら自然に相槌打ったり口を挟んだり一緒に笑いたくなるような。言葉の勢いはライブに負けず劣らずの力強いだった。音が生まれた瞬間端から消えていく音楽とはまた違った楽しみ方ができるので、少しでも大森靖子が好きならば読んで損はないと思う。

本は一方的に読むだけのものではない、著者の言葉と読者とこころが混ぜ合わさるものだな、という原点のようなものを久しぶりに感じている。読書というのは、著者が一方的に書き表したことを読むだけだから一方通行だな、と思われがちなわけだが、そうではないと思えることはたくさんあると思うよ。自分の中で本の中身を咀嚼吸収することは自分の人生を動かすことだし、読んだ感想を誰か他人と共有すること媒介になるわけだし、まれなことかもしれないけど著者その人と本の内容について言葉を交わす機会だってあり得るのだから。
全編に渡って極端な表現だったり感情的な言葉遣いをしているようだけど、自らの信条にブレないところがあるから説得力あるし、「こういう人なんだな」ってのがストレートに伝わってくるものだった。もちろんこれを読んだからって必ずしも大森靖子のすべてに共感する必要はないけれど、この人から教えられることはたくさん見つかると思う。なにか迷うことかあったりモヤモヤしたことがあったときこんなふうに書き出して考えをまとめていけばいいのかもしれないな。

靖子ちゃんが僕の大好きな椎名林檎についてちょろっと言及しているところがあって、そのフレーズがいまだかつてどのアイコーカも言ったことないんじゃないか?っていうような言葉で、林檎オタクの僕もすごい嬉しかった。それだけでも、林檎オタクのおまいらにも読む価値があると思っているぞ。

なんだか、読みながら人と話したくなってきた。靖子ちゃんと話したい、なんて恐れ多いことは言わないまでも、この本を読んだ人と。僕はこう思ったんだよ、そなたはどう感じたかな?ということを話したい。この本を軸に思いを広げたい。というとなんかクサい言い回しだが、そのような楽しみ方もしたい。そんなふうに思えたのだ。

 

 

こないだ発売されたアルバム『クソカワPARTY』のリリースイベントである特典お渡し会へ行ってきたよ。一路、新宿タワレコへ。
靖子ちゃんと直接話しをするのはこのときが初めてだったのだ。ライブのときはすげえ激しく歌って演奏するのに対して、ふたりで向き合ったときの靖子ちゃんは笑顔キュートでカワイくてカワイいのでスーパーカワイいですね。*1
上のほうで書いた、著作の『超歌手』で靖子ちゃんが林檎ちゃんのことを書いていたところがすごくこころに残っていて、昔からの林檎ちゃんのファンだけどすごく良かった、嬉しかった、と伝えました。本の内容についていろいろ言いたいことはあったけどわずか数十秒のことだし、まずこれを言いたかったんだよ。話したいことを直前に頭のなかでまとめて行ったのだが、いざ目の前にしたらすべてオタク特有の早口でしゃべってしまい、それでも「話をまとめるちからがすごい」という旨の前向きなコメントをいただきました。はいカワイイ!超絶カワイイ!もらった特典ステッカーのうち、吉田豪のほうは使い所がわからない。

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『クソカワPARTY』は銀杏BOYZとのツーマンライブのDVDがついてる版を買ったんだけど、最高によい、死ぬほどよいですね、あのライブ行ったんだけど後ろからしか見られなかったからいまあらためてじっくり見られるのが嬉しい。*2
買って間もないために曲はまだ全部じっくり聴き込めていないけど、ライブで聴いてたときから好きだった「死神」をあらためて聴いたらやっぱ好きだわ、大好きだわ。泣かせにきやがるよ。

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*1:トートロジー

*2:ただし収録されているのはフルではなく靖子ちゃん単体と、靖子ちゃんと峯田がふたりで歌ってる曲のみね、銀杏はいない

【読んだ本メモ】高橋源一郎『文学王』

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"本を紹介する本"をできる限り読まないようにするぞとこころに固く誓っており、なんとなれば、紹介されている本がどんどんほしくなってしまうからというだけの理由なのだけど。むかしひところ谷崎潤一郎の作を祖とする「文章読本」系をいろいろ見つけては読んでいたが、関連本がどんどんほしくなってきますからね。読むのをやめることにした。丸谷才一の文学系エッセイとかも危険ですよ。おもしれえもん、無限に新たな本を読みたくなり買ってしまう。そんな反省から、"本を紹介する本"を読むことはフォビドゥンとした。


のだが、そんな固い固い"禁"を破って先日うっかり入った古本屋でうっかり見つけてうっかり買ってうっかり読んじゃった高橋源一郎の『文学王』はたいへん面白かった。

ライトな文学評論集でソソッと読めるのだけど、文章の書きっぷりが軽妙洒脱で、堅苦しいメージ時代の近代文学なんかも軽く手を出しちゃおうかなって気分になる。

藤井貞和の「書かれなった『清貧譚』試論のために」という詩がひときわ気に入った。これはフィクションです、と前置きしたうえで、津島佑子(太宰治の娘で作家ね)と旅行したときに太宰の作品で何が好きかときかれ『清貧譚』だと答え彼女は涙を流した、というような内容。太宰の思い出がたりとともにふたりの関係性がほのめかされるという構造がとても上手い。あと僕が好きな『右大臣実朝』のタイトルも詩の中に出てきて嬉しくなった。

この詩はすごい良いんだけど、肝心の太宰治の『清貧譚』はどんな話だったかいな、と思って青空文庫を開いてみれば、そうだ読んだことあるぞこれは、趣味で菊を生けている貧乏な男が姉弟に出会う話だ。貧乏男の意地を張るところが笑える。元ネタが収録されている『聊斎志異』は中国の清代の短編小説集で、日本には江戸時代に伝わってそのころから翻案作品がつくられたそうな。

 

もう一冊『文学王』の中で書かれていてこれは間違いなく面白いなと思ったのが、ジュリアン・バーンズの『10 1/2章で書かれた世界の歴史』という小説。世界史をベースにしてすっげー奇想天外な話が繰り広げるような内容だそうだ。第1話が、ノアの方舟の"密航者"が神とノアの悪口言いまくる、ようならしい。これだけで欲しくなり、探すのも億劫そうなのでAmazonでやっちゃいました。マジでAmazonがなければ世の中もうちょい平和だよ。Amazonじゃなくてインターネットがなければ、だ。

 

こんな具合で面白そうな作品をどんどん見つけてきたばかりにワンケー6.5畳の部屋には本が貯まっていく一方なんですけど、つい昨日、部屋の一角で200冊ばかり天高く積み上げており「バベルの塔エリア」と名付けていたところが、神の憎みを蒙り物理法則に従って上から下まですべて崩れ落ちてきました。「あぁ…」とだけ声が出たよ。地震が来たらここ以外も全て壊滅するんだろうね。うちには本棚がないんだ。やれやれ。

そんな災厄に見舞われたとはいえ、古代エジプトではナイル川が氾濫するたびに水の引いたあと肥沃な土地をもたらし稔(もの)りが豊かになっていたそうですし、崩れ落ちた本の下からとうの昔に買ったまま読めていなかった本を発掘して「あ!これ読もう!」って新鮮な気持ちになれるのかもしれません。こういう良い効果も1%くらいの割合で含まれているものと考えられますね。ポジティヴにいこうや。

感想

文化人を気取りたくなって飯田橋の映画館・ギンレイホールの年間パスポートを買って毎週映画を観たり、仕事をほったらかしてライブアイドルの"推し事"に赴きイエッタイガーしたり、ひまさえあれば本を読む生活をずっと続けていますが、果たしてそれで健康で文化的な最高水準の生活を送れているかというと決してそんなことはなく、むしろこれら文化的なものごとのために人間として落ち着いて生きるために必要な金銭と時間をすべて炉にくべて燃やしているため、貯金は目減りする一歩通行、ズタズタに傷んだ人間関係は復旧の兆しなく、精神はすり減って疲労困憊、奈落を這って毎日毎日なんとかやっとこ河を渡って木立をくぐって生きている。いつもどおりゴミみたいな人生を送っている、ということです。

 

以前は割りとマメにやっていた読んだ本の感想をブログなどに書くこともサボっちゃうようになり、ツイッターで書影を上げてひと言ふた言つぶやくにとどまってしまった。ないんだよね、書くこと。いや、なくないけど他人が読んで面白いように膨らませることができないんだよ。元来ものごとの感想を述べることがヘタクソで、小学校のときやらされた作文なんかも死ぬほど苦手だったよ。他人のパクリみたいなことばっか書いていた。何を書けばいいのかわからなかったんだ。今もその気持ちはだいぶ強い。誰かがライブのレポートや本を感想を書いているを読んでもすげえ上手い奴たくさんいるし、僕もそいつと同じようにあるいはそいつ以上に楽しんだはずなのに書けない。そもそも感じ方が悪いのではないか?フィーリング能力が欠如しているのではないか?鈍感なのではないか?といった疑問が沸き起こってくる。小学生当時のジユー作文ならいま思えば文章技術があればやりこなせたのだろうけれども、いまそんなことしたってなんの意味もなくって、自由闊達に思うまま面白いことが書けたらいいんだろうな、面白いこと書けたら他人から興味を持ってもらえるんだろうな、面白いこと書けたらモテるんだろうなって本気で思っている。ものごとに対する感想を述べる能力、コメント力とでもいうのか、これはあったほうがいい。これが足りないから合コンも街コンも相席屋も人生もうまくいかないんだ。ちがいない。

 

というわけで、なにかの感想を書こうと思い立ったときはムリをしてでもなにかひねり出して書こうと思います。日常生活で日本語書かねえもん。書かなければ日本語の描き方を忘れてしまうよな。誰も読まなくて虚空に向かって発信していたとしても構わないや、お釈迦様は読んでくれるかもしれないし。信仰心ないけど、お釈迦様だし。なにかの専門知識があるわけでもなく、"批評"の能力ものないのだから、「感想」しか書けることがないんだよな。せめて人とちょっと違うことを、気の利いたを書けるようになればいいのだ。言語能力が高くなることでおしゃべり能力も向上して合コンも街コンも相席屋も人生も勝利できるって寸法だ。まぁそんなこと言いつつすでにこの記事はブログというWEBツールとしての読みやすさを一切無視しているけれども、お釈迦さまは許してくれるよ。

 

まずは第一ルールとして、なにかの感想を書いたときに140字を超えたらブログにまとめることにしよう、という決意表明でした。いまさら。いちいち誓わないと前に進めない性格なんだよな。