アサヒ死ンブン

死骸ブログ

ボーダー・オブ・アサヒ

「境界を越えるのはいつだと思う」
「今日かい?」

 

ちかごろはなにかと白黒つけたがるのが世のはやりで、悪しきインターネットにおいては特に正しさばかりが追い求められて、賛成か反対かがすなわち敵か味方かの分断になりがちなのが非常によくないと思うのだ。あらゆる境界はあるようでけっこうデタラメで、明確に引かれていないものもあれば踏み越えても支障のないものもたくさんあるのに、みんなかなり気にして生きているようだ。ほとんどデタラメななかでただひとつ越えてはならない境界は生死の境だけで、これを他の境界とゴッチャにするのがマジだめ。ダメダメ。「美しいうちに死にたい」みたいなのがその典型で、美しい花はあっても花の美しさなんてものはないし、醜さ美しさの境界なんて冷静に考えるとないに決まってんじゃん。それはたぶん、生きることの悲しさつらさめんどくささを封じ込めるための死に意味づけをしていることなのだ。これは実際にかつて存在した、美しいままに死んでいって肉体は燃えて灰になった者に対して言いたかったことなのだが、生死の境に阻まれておりいまだ伝えられていない。

 

ところで僕は越えぬべき生き死にの境界は明確にわかっているのだけれど、家族友人、恋愛、そのほかの人間関係における登場人物がどういう線引きをして生きているのかわからず、彼らとの関係がうまくいかない。少しはなしが逸れるけれど援助交際もできない。倫理の境界の問題ではなく、金額の根拠がわからないという問題で。好きな女(脈はない(死んでいるという意味ではない))との会話において、
「コミュニケーションツールのラインの直訳たる線は、我々を繋ぐことを意味するのではなく、我々のあいだの永遠に交わらない境界の比喩なのかもしれないな」と意見したところ、
「は?」と返され、
「僕はおまえのことが好きなのにおまえは僕のこと好きにならないってことなんですが」
「それはそう」
断絶。終わってるね。