アサヒ死ンブン

死骸ブログ

人生の終わりとハードモード・デスペアーランド

人生がうまくいかない。なにもかもうまくいかないわけではないけれど、怒りを発露できるときとできないときがある。仕事でクソみたいなクレーム連絡が入ったら一瞬で頭が沸騰して「殺す!!殺す!!殺す!!殺す!!殺す!!!!」って叫びながら激情に駆られたメール対応ができるのに、クソ女に騙されたときは「ま、しゃーないか……」ってすぐ諦めちゃうくせをなんとかしたいな。


クレーマー野郎どもは人生うまくいってるのだろうか?たまに笑かしよるクレームが入る。曰く「ずっと利用していましたが御社のサービスはわたしを満たしてくれません。良くしてくれません。刺激を与えてくれません。幸せにしてくれません。利用をやめます」うっせ~!!おまえのために作ってるシステムじゃあないんだが?なんでも望むもの与えられ続けると思っていたのか?おまえは一生その受け身の姿勢で生きていくのか?いったいなにを期待していた?あらゆる疑問が噴出して「殺すぞ」と返信してしまいそうになる。


「あさひくん、あまちゃんだからな。どこまでいっても常識人だし。たとえそのクレーマーさんが目の前にいても、あさひくんはそのひとを刺し殺すことはできないよ」
「うるさい、ひどいめにあわすぞ」
「やってごらんよ」
ペロ子ちゃんは短いスカートをふとももがあらわになるまでたくし上げた。
「あさひくんはわたしにいったいなにを期待していたのかな?やすらぎ?」


自分の立場をはっきりしないくせに偉そうなことを言うやつらが気にくわない。甘えてんのか?ちかごろ見かける「感慨深い」という言葉ってさ、ある話題に対してYES/NOの立場は表明したくないけど口を挟んで主張はしたいぜ!と思ったときに使うと、敵味方対立からの炎上を避けうる、じつに便利な、現代のSNS社会を生き延びる知恵として使われだした言葉のようで、じつに感慨深いな。じつが良いとも悪いとも言っていない。甘えんなとは思う。


「ペロ子ちゃん、の、は、すごく、」
「ん、どうしたの、もう、息、上がっちゃった?」
「いや、じつに、感慨深い」
「なにそれ?」
感慨深いな、なんて言ったら雰囲気悪くなる場面もあるぞ。

 

人生は他人との関係で作り上げていくものだと思うけど、どうやって作り上げていけばいいのかな。ヴァルター・ベンヤミンの『翻訳者の使命』で書かれてる「翻訳」のなされ方は、原作に似せていく(メタファーモデル)ではなく、断片である原作に断片である翻訳をくっつけていく(メトニミーモデル)ものだ、というもので、人生もこれだなって気がしている。意識高い系のひとびとの"教え"では「人生の先達となるべきメンターを見つけろ!」と言うのが常套であるが、仮に成功してる人間が近くにいたとして、そう簡単にメタファーになれるものかと。ナイナイ。ひとの真似なんて、できるわけがない。

 

「あさひくん、またむつかしいこと考えてるね。あさひくんが人生コンテニューコインをくれ続ける限り、会ってあげるよ。あれ、コインじゃなくて、ペーパーかな?お札ってなんて言うんだろう?」

 

まぁ、我々の人生は、関係は、そういうものだ。人生コンテニューコインを提供できなければ終わってしまう、金の切れ目が縁の切れ目、細い糸の繋がりは、一線断ゆるとき、落落磊磊。