アサヒ死ンブン

死骸ブログ

死んで生き返ってくりかえされる諸行無常

「長生きをしたいと思いますか?」という問いに対して迷わず「誰より長生きしたいと思う、まわりが死に絶えても自分ひとり生き残っていたい」と回答する。これは生きているうちにやりたいことがたくさんあるだとか生命を尊く思っているとかいうポジティヴな理由からじゃなくて、もっと吝嗇的なこと。僕はどんなに安っぽいものであっても自分の持ち物を絶対に失いたくないタチので、生命もまた失いたくないのだ。要するに「不老不死になりたいけどなれないならしかたがないからできるだけ長生きがしたい」ということなのだ。長生きのための努力はなにもしていない。若いころはあらゆることにビクビクしていたが、ちかごろは人生はいくらでも取り返しがつくしなんとでもなると思うようになったので、手取りがナンボとか食費に何万かけたらぜいたくだとかいう議論を見てるとアホくさいなと思っちゃう。いや、マジでこんな思考だから結婚できないんだし、晩年は「こんなはずでは……」って言いながら苦しんで死ぬ気がするね。

 

いままであらゆることにさんざん負け続けてきた人生なので、試合にこだわっていない風を装っているけれど、勝ち負けに対してはひと一倍敏感なのだ。争いに意味はないよ、勝ち負けにこだわるなよ、と言って試合を解体するようなことを言いつつ、そのまま勝負をしていれば勝っていたであろう相手の背中を刺したいと考えている。歌舞伎町のホストを刺すみたいに実際に刺しはしませんよ。比喩だよ。比喩的な意味で、刃を磨いている。芸能人のできちゃった婚ニュースに対して、AV男優が順序を守らない子作りはよくないというようなことを言っていたけれど、結婚が先であることが当たり前であるとすることすなわち子供ができることと婚姻が結びつくことの自明性を疑わないところが考慮足らずのチンポ脳だなぁと思った。正しいことは聞き飽きた。正しさの押し付け合いは見飽きた。ルールを作ることはゲームを作ることで、ゲームを作ることは世界を作ること。まわりの人間がみんなロボットに見えてしまって学校へ行くことをやめてしまった少年は、いつか自分自身が壊れたロボットであることに気づくかもしれない。ルールに従うのが嫌だから別のルールを作るんや、というのは創造的なようでいて、もっと大きなルールに縛られている。人間としてのルール、生命としてのルール、逃れようとしても逃れられない大きなルールを見ないふりしたいから、生命のことわりに逆らって無限に生きるようなことを考えちゃうのだ。

 

世の中には「これを見ずして死んでる場合じゃない」と思わされるものがやまほどあることを知っているので、なんとかして死ぬまえに死後蘇る方法を見つけ出さねばならない。