アサヒ死ンブン

死骸ブログ

アサヒのヒはヒラガナのヒ

若い頃は文章に於いて漢字に出来る箇所は凡て漢字で書く様な痛い学生生活を送って居り、此れは椎名林檎のオタクが悉く皆が通る道だと思うんだが、ちかごろはひらがなで書いても読みまちがいの起こりえないことばはすべてひらがなで書きたいと思うようになってきた。ひらがなのほうが読みやすいよな。読みやすいと思うようになったのか。脳みその情報処理能力が落ちているのかもしれない。情報処理能力が落ちているといえば、うちのパソコンはボロすぎるせいかな、「令和」が変換できないし、さっき上の分を書くにあたって「可読性」って言葉を使おうと思って変換しようしとしたら「可毒性」にしか変換できなかったんだが、可毒性ってなんなんだよ、そんな言葉はねえよ。な?

ひらがなで書きたくなっている、というよりは、漢語よりもやまとことばを使いたいきもちが強まっているというほうがただしいかもしれない。すこしはなしがそれるけれども、やまとことばでいうとひとつ、短歌のお兄さんと話したことがある。現代短歌においてなんで未だに古くせえ言葉が使われてんだろうな?ってのはまぁ、それに代わる言葉が生まれ定着してないからだろうとしか言いようがないと思うんだが、やっぱヘンくないですかね、短歌用語の古くさいことば。たとえば「相聞」が恋愛ジャンルのことを指すとか古典の授業の九割を寝てすごした僕みたいな人間には馴染みがないし、「詠草」ってのは詠んだ歌のことだというが音だけ聞いたら軍隊用語の「営倉」が先に浮かぶし、「吟行」って僕は愚かだから読めないし音を聞いたら「銀行」としか思えない。もっとイイカンジに言い換えられるやまとことばはないんすかね。まぁないからみんなこれらを使っているんだろうけど。えらそうなことを申し上げましたが僕は短歌をめったに作らないし、文句をつける意味もないし、まじめなひとに刺されそうなことは言わない方がいいのかもしれないな。