アサヒ死ンブン

死骸ブログ

ディズニーランドに住もうとおもうの

パパ活をしてきた。パパ活といっても、パパを見つけてイイコトしてお金をもらうわけではなく、パパになってイイコトしてもらってお金をほどこすわけでもなく、実父と会食をしたのだ。パパは郷里(くに)から出てきてわざわざ僕に会いに来た。定年を迎えたばかりで時間はあるのだそうだ。

僕の弟が近々結婚するそうだ。なぜ伝聞体なのかというと、当の弟からは嫁の情報も結婚式の情報もいっさい送られてこないからだ。親からウワサを聞いていたのみだった。じつは嘘なんじゃないかと思っていた。本当のことらしく、結婚式の日程をこの日父親から教えられた。

「いつまで経っても連絡がこないから行かなくていいのかと思っていたよ」
「絶対にこい」

などと言われた。はなしの流れから、当然のことながら、僕の事情についてもきかれるのだ。
「おまえはないのか。その、結婚の見込みとか」
「ないです」と答えるほかない。
「お母さんが心配しているよ。別に無理に考えろというわけではないが、すこしでも考えがあるならばきかせてほしいんだが……」
ママを引き合いに出されても、ないものはないんだよな。
「結婚への意思がないわけではないが、本当にないよ、見込みもないし、得る気もないし、結婚相談所も婚活パーティも行く気はない。物理的にないので、ないんです。女に興味がないわけじゃないって。はなしの合わない女はムリなんだ。気が合わない女といる気はないってこったよ、父ちゃん」
「寂しくはないのか」
「うちには猫がいるし仕事は楽しいし友達多いので、人間関係資本(猫も含んでいるが)はまぁ足りている」
なんで親とこんな会話しなきゃいけないんだろうな。

両親とも弟とも仲が悪かったわけではない。家族のことが嫌いではない。親には感謝の気持ちはあるけどJ-ヒップホップのリリックみたいに過剰に感謝する気はないし、思春期のころには人並みに家族を枷だと思うようなことはあったけどそんな気持ちもいまは遠く、そもそも振り返ってみればむかしから家族というか、生まれに善し悪しを感じてこなかったように思うな。幸も不幸も感じない家に生まれてきた。まぁ世の児童虐待のニュースを見ていると、こんなノンキなことを言ってられるだけ幸福なのだとも思うけど。どうあれ自分のなかに家族の特別感というのはとても希薄で、細くとも切れずに繋がっていればいいやくらいのものなのだ。家族や親族の外にさまざまな人間関係資本を築ける時代だからそう思えるのかもしれない。きっと親が死んでも、悲しいは悲しいけど、そりゃいつか死ぬわなという気持ちも同じくらい抱くことと思う。必要以上に悲しむ意味なんてないだろう?ひとは基本的に自分のために生きるものだから、当人が自分の生をまっとうできるかどうかが問題で、そこに家族のつながりが求められるなんて信じられない。否定しているわけでない。本当に信じられないのサ。

絶対にこい、と言われたけれど、肉親の結婚式なんてのも絶対に行かなきゃならないものなのか?家族と勘当に近い確執があれば行かないことに大きな意味があるんだろうけど、そうでなくて、肉親でもそうでなくても、勝手に幸せになっていればいいんじゃねえかなって思うのだ。僕は世のなかのみなさんがいう幸せなんてよくわからないものは放棄することにしたし、ほしくなったら幸せを自分で再定義してお前たちとは異なる手段でそれに迫るよ。「愛」は"いまここ"にあるものでなく振り返って「あれは愛だったのだ」と過去形でしか測れないものだ、という思想を持っているので、愛に基づく連帯なんてものも信じていない。ひとのことをあんまり信じていないんだよな。誰かから信じられていると思えたこともないので。

僕はディズニーランドもシーも行ったことがないのだけど、きっと恋人と一緒に行っても家族で行っても楽しいところなんだろう。僕には縁のないところだよ。