アサヒ死ンブン

死骸ブログ

感想

文化人を気取りたくなって飯田橋の映画館・ギンレイホールの年間パスポートを買って毎週映画を観たり、仕事をほったらかしてライブアイドルの"推し事"に赴きイエッタイガーしたり、ひまさえあれば本を読む生活をずっと続けていますが、果たしてそれで健康で文化的な最高水準の生活を送れているかというと決してそんなことはなく、むしろこれら文化的なものごとのために人間として落ち着いて生きるために必要な金銭と時間をすべて炉にくべて燃やしているため、貯金は目減りする一歩通行、ズタズタに傷んだ人間関係は復旧の兆しなく、精神はすり減って疲労困憊、奈落を這って毎日毎日なんとかやっとこ河を渡って木立をくぐって生きている。いつもどおりゴミみたいな人生を送っている、ということです。

 

以前は割りとマメにやっていた読んだ本の感想をブログなどに書くこともサボっちゃうようになり、ツイッターで書影を上げてひと言ふた言つぶやくにとどまってしまった。ないんだよね、書くこと。いや、なくないけど他人が読んで面白いように膨らませることができないんだよ。元来ものごとの感想を述べることがヘタクソで、小学校のときやらされた作文なんかも死ぬほど苦手だったよ。他人のパクリみたいなことばっか書いていた。何を書けばいいのかわからなかったんだ。今もその気持ちはだいぶ強い。誰かがライブのレポートや本を感想を書いているを読んでもすげえ上手い奴たくさんいるし、僕もそいつと同じようにあるいはそいつ以上に楽しんだはずなのに書けない。そもそも感じ方が悪いのではないか?フィーリング能力が欠如しているのではないか?鈍感なのではないか?といった疑問が沸き起こってくる。小学生当時のジユー作文ならいま思えば文章技術があればやりこなせたのだろうけれども、いまそんなことしたってなんの意味もなくって、自由闊達に思うまま面白いことが書けたらいいんだろうな、面白いこと書けたら他人から興味を持ってもらえるんだろうな、面白いこと書けたらモテるんだろうなって本気で思っている。ものごとに対する感想を述べる能力、コメント力とでもいうのか、これはあったほうがいい。これが足りないから合コンも街コンも相席屋も人生もうまくいかないんだ。ちがいない。

 

というわけで、なにかの感想を書こうと思い立ったときはムリをしてでもなにかひねり出して書こうと思います。日常生活で日本語書かねえもん。書かなければ日本語の描き方を忘れてしまうよな。誰も読まなくて虚空に向かって発信していたとしても構わないや、お釈迦様は読んでくれるかもしれないし。信仰心ないけど、お釈迦様だし。なにかの専門知識があるわけでもなく、"批評"の能力ものないのだから、「感想」しか書けることがないんだよな。せめて人とちょっと違うことを、気の利いたを書けるようになればいいのだ。言語能力が高くなることでおしゃべり能力も向上して合コンも街コンも相席屋も人生も勝利できるって寸法だ。まぁそんなこと言いつつすでにこの記事はブログというWEBツールとしての読みやすさを一切無視しているけれども、お釈迦さまは許してくれるよ。

 

まずは第一ルールとして、なにかの感想を書いたときに140字を超えたらブログにまとめることにしよう、という決意表明でした。いまさら。いちいち誓わないと前に進めない性格なんだよな。