アサヒ死ンブン

死骸ブログ

20090709

毎年むかしの恋人の命日に合わせてどこかになにか書くことにしていて、しかしもう九年目にもなると書くことは少なくなってきて、去年なんかはサボっていてポエムみたいなことしか書かなかったのだけど。いまさら書くこと、ないんだよね。ぐだぐだ考えても意味のないことだから、一年一度のおいのりの日にしか考えないことにしている。おいのりっつっても終日しんみりしてるわけでもなく、ちょっと思い出してみるだけだね。意味がないので。

九年経ったいまや、命日を覚えているのは僕を除けば彼女の父母のみじゃないかな。その二人もいま現在どのように生きているかもう知らないし、命日を覚えている人間がこの世にマックスでもたった三人だなんてのはなんだかとても寂しいので、思い出させてやろう、知らしめてやろう、という思いがないわけではない。思い出の大半は消え去っしまった。一緒に遊びに行った場所とか断片的には覚えているのに、どうしてそこへ行ったのか、どんな話をしたのかまったく思い出せない。当時使っていた携帯電話はとっくにぶっ壊れたし、ガラケー時代だったもんで動画なんて撮ってないから声はまったく残っておらず、彼女の面影を伝えるのは手元にある一緒に撮ったプリクラの2シートのみ、これを焼却すればいよいよ亡霊も消え去ってくれるだろうか。亡霊っつってもそれは僕のあたまの中にイメージがあるというだけのことで、あの者は一度たりとも夢まくらに立ってくれない。恨み言も言わなければ、天国の居心地も教えてくれない。死を迎えるとともに僕のことを忘れてしまったのかもしれないし、もしかしたら幽霊なんていないのかもしれないね。

生命はそんなにも大事なものだろうか。ひとは案外、他人の死になんて興味ないんだよ。そりゃそうじゃない?僕だって誰かから「むかしオレ/わたしの恋人が死んでね〜」みたいなことを言われても、「あっそうすか」くらいの反応しかできないよ。興味ねえもん。僕だって人な生き死になんてあまり関心がないですよ。どうしようもないもの。どうしようもないことをどうかしてやろうと考えることが無意味だと知っているからな。

死ぬ前の日に無理してでも会いに行けばよかったのではないかとか、もっと前から向き合って話をしっかり聞いてあげるなどして、逃げ場所を作ってあげたらよかったのではないかとか、若いころは考えたよ。考えた考えた、シミュレーションしましたって。いろいろ考えたけど、それらをうまく叶えても、結局死ぬのがちょっと後回しになっただけだろうなって思うんだよね。まぁ、あんだけ考えたんだから、この人生もう一度やり直せたら次は失敗しないだろうよ。こんなこと考えても一切ムダだけど。とはいえ、付き合ってすぐくらいのころ、恋人がちょっとメンドーなヤツだとバレたときに自分の母親から指摘された言葉が「おまえはヒロイズムに酔っているのではないか、すこし冷静になったほうがよいのではないか」(←「別れろよ」という意味)というものだったんだが、これには抗ってよかったな、とは少しく思っていることがある。書かないけど、僕は十年前からクソ雑魚人間だったが、すこしはあの者のために役立てたことあるんだぞ。まぁ、僕と付き合っていなければ奇跡的に死なずに幸せになっていた可能性もあるので、これもまた考えるだけ無意味だよな。前述のとおり思い出がもう随分褪せてきており、象徴的なものばかりがこころに残っているようなかんじになっているが、こればかりはずっと忘れられないということもあって、早朝のマンション前に止まっていた灯の入っていない救急車、あれは死の象徴だ。早朝と象徴で韻が踏めるね。本当に馬鹿馬鹿しい。

これから半世紀のち、いつか冥府だかあの世だか、地獄だか根の堅洲国だか、そんなようなところで彼女に会ったときにまず言ってやんなければいけないことはだいたい決めている。あとひと月生き延びていたら、好きだったマンガが二作最終回を迎えていたのにな。読まずに死ぬなんて惜しいことをしたよ、おまえ。せめて最終話の感想を語り合ってから死んでほしかった。ってことをあの世で会ったらまず話さなければならない。

葬式のときに、遺骨をダイヤモンドにするサービスみたいなのがあるのだと彼女の父親から教えられ、作ってもよいと言われたので「お願いします」と言ったら、後からほかの遺族の連中がやってきて「やめてくれ」と言われ、僕はどうでもよかったので「わかりました」と答えて沙汰止みになったわけだが、いま思えば、僕より無能だった連中の言うことなどきかなければよかったな?どうかしていたよ。

人の死を身近に感じた経験があるからといって、僕はまわりの人間に対して生命を尊重してやろうなんて気持ちにはまったくなれない。死にたければ勝手に死ねばいいし、止めもしないし、もしも本当に死んでしまったら、彼女が死んだ時と同じように嘆き悲しみ悔やむだろう。それがわかっていても、どうしようもない。僕には死にたがりのみなさんの気持ちや、死んでいったみなさんの気持ちなどわからないからだ。生命の尊さなど考えたこともない。

彼女の父親から、辛くなったら話をきいてもらえるところがあるからと、自死遺族のお話をご親切にもきいてくださるサービスを提供してくれる組織を紹介してもらったが、僕はあたまがよいので、そんなところで話をしても現実世界になにひとつ影響を及ぼさないことはわかっており、いっさい利用しなかった。恋人が死にました、っつって、なんと答える?そっかドンマイ、くらいしか言うことなくないすかね。そんなこと言うやつらはいったい何が楽しくて生きてんだろうな。理解に苦しむよ。ネクロマンサーとか霊媒師、シャーマンやイタコなんかを紹介してくれたほうがまだ興味が持てたことだろう。大川隆法のほうがマシじゃないかとさえ思う。フキンシン、てやつかな。知ったことではない。

亡くなってすぐにパソコンとかアクセサリーのような金目のものは遺族の連中に根こそぎ奪われていったので、せめて書き遺していたものは奪われてなるものかと、手帳やメモの類一式をこっそり持ち帰り見聞した中には漠然とつらいということがちょくちょく書かれていたり、あるいは直接的な言葉で寂しさが埋められないだの、精神の変調だの、入院していたときのおかしなことも色々書かれていたけれど、僕はあたまが良いのでだいたいすべてを理解し、いまも実家に封印している。あれはそろそろ焼却してもいいな、とはずっと思っている。あそこには叶えるべき彼女の言葉のようなものはなにも書かれていないかったので。でも、手帳のカレンダーでデートの約束していた日付けに◯をしていてくれていたのを見るにつけ、なんだか消してしまうのがもったいなくなってしまうのだ。だからまだ燃やせていない。

ひとの死についての感想というと、ほんのひと言が届かなくなる永遠の断絶を感じるということかな。たったひとこと、伝え忘れていた言葉が、目の前にいるのに決して伝わらない。こんなバカバカしいことがあるかよ。まったく意味がわからなかった。寝ているのと同じようなものなのに、目を覚まさない意味がわからない。そんなようなもの。

転勤して地元を離れることになるまでのしばらくのあいだは誕生日とかクリスマスとかにちょっとしたものを買っては祭壇に飾っていたんだが、あんなものもムダだったな。とんだ茶番だった。金のムダだったよ。そんなことして誰が喜ぶわけねーだろって子供でもわかることだが、そのころの僕は本当にそれ以外にやることがなかったんだね。毎週約束していた遊びにいく予定もいっさい反故になり、いざひとりきりになると週末の過ごし方がわからない。なにもやることがなくなった。人並みの趣味とかあればよかったんだが、僕には昔から何かをする情熱も才能もなかったので、打ち込めるものもなかったよ。今みたいにバカみたいに本なんかひとつも読んでいなかったし。なにもしていなかったわけではないけども、なにもかもムダだった気がする。僕には欲しいものもなにもないので、この何もない感覚はずっとずっと続いているね。これは彼女がいようがいまいが関係なく、何事にも価値を見出せないというのは僕の問題なのだろう。まぁどうしようもない。

この世に救いはあったのだろうかと考えてみることもあるが、彼女は小さいころから音楽が好きで楽器の演奏をずっとこころのよりどころにしていたけれど、そんなものは生きている理由にならなかったようなので、信じられるものは無いと言ってよい、と結論した。この世に救いはないです。

あれ以来、冗談でも、生まれ変わったらどうなりたいだの来世はどうなりたいだの、そういうバカみたいな話ができなくなくなってしまったね。時間の無駄だとしか思えない。ねぇよ、そんなもの。霊とか言ってるのんきものを見つける煽られてる気がしてイライラするようになってしまいました。

なんだか辛気臭いことばかり書くことになったが、まぁこの話題を持ち出すのは一年に一度きりだし別にいいでしょう。