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死骸ブログ

【読んだ本メモ】竹田青嗣『ニーチェ入門』(ちくま新書)

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一読しただけでなにもかも理解できるようになるわけではないが、ニーチェの思想の概説がコンパクトにまとまっており、同時に読んでいるツァラトゥストラの脚注で解説されていることがなんとなく理解できるな、というくらいになれそうな気持ちになれました。

むかしミクシーで日記を書いていたとき、その時もあらゆることに気分が悪くて「この世の森羅万象がムカつく」というようなことをいつも書いていました。あるとき誰かが「それはルサンチマン(ressentiment)だね」とコメントをくれたのですが、ニーチェを1ミリも知らなかった当時の僕は何言ってんだコイツとしか思わなかったけど、いまにして思えばアイツの言いたかったことも少しわかった気がします。"超人"だったのかな、アイツ。


とりあえず、ニーチェ思想の三本柱

ルサンチマン批判

・これまでの一切の価値の顛倒

ニヒリズムの克服、価値の創造

についてなんとなくわかった気になれた!(読んだ直後はね)

 


1950年代ごろまでニーチェはナチズムに影響を与えた不穏で危険な思想家であるとみなされることが多かった。権力への意志、神は死んだ、一切は許されているといった、ニヒリズムの感覚、反理想主義・反道徳主義の印象のため。

マルクス主義の崩壊とともに近代最大の哲学者という評価に変わっていく。

 

19世紀における資本主義の矛盾、植民地戦争・帝国主義戦争・世界大戦の原因をマルクス主義は資本主義にあるとした。資本主義は絶えず新しい市場を求めるため、資本主義国家は市場と利権を求める侵略的になり戦争行為が必然的となる。ゆえにこの矛盾を根本的に解決するには私的所有と自由競争を取り払うことが求められる。

現実には、社会主義国家は例外なく極端な権力ゲームの社会になり失敗した。そこでニーチェの思想は、権力的なもの・権力を作り上げる力学に対する強力なアンチテーゼとして読み直された。


ニーチェを重要な柱としたフーコー歴史観の基本は、近代的な「権力」は暴力によってではなく「知」によって組織される。権力は強力な抑圧として存在するのではなく、個々人のうちに内面化され、隠れた権力として機能する。いかに見えない権力を解体するか。

 


ニーチェにとってのアイドル的存在、ワーグナーショーペンハウアー

ショーペンハウアーは世界をふたつに区別する。世界の一切の現象(表象)、と、この一切の現れの根本原因となるもの(意志)。人間は運とかツキとか、自分の運命を左右する「根本原因」を想定せずにはおられない。具体的な意志の現れとしての人間のあくなき欲望により、人間は苦悩する。仏教ぽい。


●『悲劇の誕生』

人間はその欲望の本性(生への意志)以外によってさまざまな苦しみを作り出すが、にもかかわらずこの欲望(生への意志)以外には人間の生の理由はありえない。←「生の是認」

悲劇の本質は、矛盾にもかかわらず人間は生を欲するという根源的「意志」の本性を人間に伝えるもの。音楽の精神からのみそれが可能。アポロン的な個別化する原理でなく、ディオニュソス的な一体化する原理を本性とするゆえに。


17世紀デカルト、18世紀カント、19世紀ヘーゲルによる近代哲学によって企てられたのは、

①正しい「認識」の原理

カントの「物自体」

人間の理性の能力では、「世界それ自体」(物自体)を認識することは不可能。

ヘーゲル、人間は長い理性の歴史のプロセスを通して最後には「絶対知」に達しうる存在だ


②人間の「善悪」の新しい基準

カント、「善」とは、自由な存在である人間が道徳的たろう意志すること

ヘーゲル、これが世界全体にとってもっとも正しいあり方だという意見がいくつも出てきたら無意味だと批判。人間は自己中心性を持ち自分が愛されたい認められたいという自我の欲望をもつ、そして原理的にはこれは他者の承認によってのみ可能。

 


●『反時代的考察』

ドイツが正真な文化の追求を怠っていながら戦争の勝利によってドイツ文化の卓越性が証明されたかのようなでたらめを言い募っているのだという、ドイツ文化批判のような内容。


・良い・悪い、善悪の起源論

「よい」の起源は利他的な行為、この行為を受けた人にとってよいもの。この起源が忘れられ、ある行為自体(施し・慈善・犠牲など)が習慣的に"よい"と呼ばれるようになった。

↑とされているが、ニーチェ的にはこれは間違い。

利己的-利他的という概念ではなく、高貴-野卑という対立概念で結びついている。「高貴」な者・高位の者・強力な者たち自身の自己規定として生じた。「高い者」たちが自分自身に属するさまざまな力の特性を「よい」と呼び、このような力を持たないことが「わるい」と呼ばれたのだ。


道徳の起源は恐怖や不安→道徳は群れ集まろうとする本能に由来する、弱さの現れといえる。利他性は弱者から出てくるものであり、道徳の基礎には願望がある。

人間社会に必要な道徳が胡散臭くまた危険なものになるのは、ルサンチマンによって道徳の自然性が反転し内向し、現世を超えた絶対性と結びつくときである。


本来普遍的に人が持つものだったはずのある正しさ(利他性など)を絶対化するところに宗教のうさんくささがある。ニーチェが20世紀後半に再評価されたのは、キリスト教批判が信念・主義・イデオロギーなどに対する普遍的な批判思想として読み直されたから。


客観・物自体・世界そのものといったものは存在せず、人間が与える無数の評価・解釈があるのみ、その中でもっとも力を持った(説得性がある・権力を持つ)解釈が真理と呼ばれていたにすぎない。

神学的世界像の代わりに登場した哲学・科学、ロマン主義相対主義懐疑論・機械論・無神論・ペシミズム・デカダン→徹底的ニヒリズムの到来、なにもかも人間社会の取り決めにしかすぎないのならば、実は一切はなにもなく一切は許されているのでは??

苦悩→ルサンチマン→三つの推論(目的・統一・真理)→ニヒリズムニヒリズムを克服する理想「超人」「永遠回帰


●『ツァラトゥストラ

「階序」があるという前提。平等であったらよいのに・平等であるべき、というところからルサンチマンが生まれ、生の否定にまで行き着く。これを取り払う。強者と弱者が存在するという事実を認める。


●「超人」と「永遠回帰」の解釈についてもいろいろメモったけど、よくわからなくなったので一切消しました。