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死骸ブログ

【読んだ本メモ】アゴタ・クリストフ『悪童日記』(ハヤカワepi文庫 堀茂樹訳)

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もうだいぶ前に一度読んだことがあったのだけど、読書会の課題本になっていたのを発見したので再読、読書会にも参加してきました。
以前読んだときは 続編にあたる『ふたりの証拠』『第三の嘘』まであまり間を置かず読み切ったのだ。
(どんでん返しにつぐどんでん返しに揺さぶられた記憶だけあるのだけど、続編の内容はもう覚えていない)

 

疎開先の祖母のもとに預けられた双子の兄弟が戦争の日々という非日常を大人顔負けのしたたかさをもって生き抜く様子をつづった日記、というスタイルの小説。文章自体は淡々としていて、分量的にもすぐに読める。作中で銘記はされていないけれど、舞台は第二次世界大戦末期のハンガリー、大国の戦争に巻き込まれた小国の複雑な情勢が物語の背景に見え隠れしている。

 

この作品の恐ろしいなと思うところは、自分のなかでどう読むか・どう解釈するかを考えたときに、想像の余地がとても広いことだと思う。テキストの内容をそのまま受け取ればなんて強い子供たちなんだ、戦争という極限状態がこの子達をこんな風にしちゃったんだな~、というふうに、「好意的に」読むこともできる。そのうえで子供たちなりの倫理観を理解してあげることも、間違いではないのだろう。
ところがこの日記の書き手は、作中でわざわざ「作文の練習」をしていることを書きしるしている。とすると、この日記は必ずしも真実を描いた日記ではないのではないだろうか?という疑問が生まれてくる。どこまでが真実で、どこからが挙行なのだろうか?と考えだしたときに、極端を言えばすべてが作り物、虚構なのではないか?とすら思えてくる。日記の始まりは子供たちが祖母の家に連れてこられるところだけど、始まりの時点からこの兄弟は抜け目なく親たちの会話を盗み聞きしている。弱かったころの自分たち、のような描写がないのだ。自分たちのありのままの姿を知ってもらいたかったのか?はたまた作り話を読んでもらいたかったのか?
そんな感じで、想像を膨らませる余地が膨大にある作品だった。三部作の続編で、この日記の意味は明かされる。とはいえ、それはあるルート分岐のひとつ、くらいに思ってあまりとらわれずに、この作品はこの作品単体として自分なりの妄想想像を思い描くのがいいように思う。

 

↓一年半くらい前に読んだときはこんなことを書いていた。
http://open.mixi.jp/user/4799115/diary/1955638038