現実世界のルーザー

この世に救いはない。読書論・椎名林檎論などを綴った、この世界最後のブログです。

校則の存在意義についての一考察

女子高生の染髪強要事件が話題なので、僕も乗っかって少し書いておこうと思う。

校則に論理的な根拠なんてない。
ではなんであんなバカみたいなものがあるのか?なぜあんなバカみたいなルールに付き合わされねばならんのか?斯く言う僕も高校生のときいきなり明るい茶パツにして行ったらめちゃクソ怒られた恨みがある。ムカついたねえ。

そこでこのたび校則の存在意義についてあらためて考えて、きっとこうなんだろうなァという解釈をしてあげてみた。大人になってからわかることってのもあるわけだな。

一般に「コミュニケーション能力」というと、
 ①論理的にものごとを伝える能力
 ②空気を読む能力
という、実質正反対なふたつの意味があると思います。

企業の募集要項に「コミュニケーション能力のある人を求めます」とか書いていますが、社会で求められるのって、明示されていないけど①②の両方でしょう。

学校のお勉強では前者①が鍛えられ、校則ってのは後者②を鍛えるためにあるんだろう。
ってのが僕の意見なんだよね。


校則は空気を読む訓練のために存在するもの。

この結論が妥当かどうか、考えてみてほしい。
だってだって、校則が本当に意味のある内容を持っていて、学生が従うべき規範であるならば、全国統一基本校則のようなものを国が制定でもしてしまえばいいことではないか。*1それがなくって、ただ学校ごとに校則が定められていているんなら、校則の反映された生徒が相対化されるのは自明ではないか。
独自ルールを守らせるための訓練であるとしか思えない。

たとえば「地毛登録」「地毛証明」の教育効果は、「ぼく空気読んでますよ~~~」と主張するための練習であるということだ。

そして、いかにルールの隙をついて生きるか、その勉強をしているのだと理解せなばならない。

※だから「服装や髪型髪色を校則なんかで縛らずに自由なファッションを認めさせてやれだ」なんて批判は僕の説からいうと的外れだね。
(校則で拘束ってwwwwwwwwww)

よく、「ズルいやつらは校則を破っているのに怒られず、真面目な人だけ損をしている」というガキの主張が見られるが、これもまた僕の説に則っていえば、そりゃそうだよってことになる。
学校を出たら、社会にでたらゴミ虫のようにズルい人間がわんさかいるんだぞ?
校則すらこっそり破れないようじゃ社会のゴミ虫に負けちゃうぞ、って学校は教えてくれているのだ。校則はそのようなものだと解釈せねばならない。校則の破り方がわからないというのは、数学がわからない英語がわからないと言っているのと同じことなのだ。勉強不足なのだよ。


というのはまぁ半分本気で半分冗談なんだけど、件の染髪強要事件はどのように解釈すればいいんだろうか。

何度も言うけど、校則に根拠などない。
スカートの膝上何センチだとか、なにを根拠に決めたのか、ご説明かなう先生はいらっしゃるのかな?古来よりスカートの丈とスピーチは短ければ短いほうがよいというぞ?

はじめから根拠のない校則なんだから、いくらでも例外を設けられるに決まってんじゃん。
それができないなんて。相対化するためのツールでしかない校則を絶対視しちゃったなんて。なんという愚かなことなのだろうか。先生がたは校則の存在意義なんて考えたこともなかったんだろうな。

というわけで、件の先生がたは、相手がたまたま社会的に弱い立場の高校生だったからドヤれていただけの、空気の読めないコミュ障な大人だったのですね。(結論)

 

*1:ないよね、そんなの…?よく知らずに書いてるよ