アサヒ死ンブン

死骸ブログ

椎名林檎の「今」を聴いて思うこと

僕は小説家なのだけどいっこも小説が書けないので、副業でSE*1をしているかたわら、人理継続保障機関「カルデア」で人類史を正す戦いに身を投じている。それは未来を取り戻す物語!現在、夏の水着イベント真ッ只なかだ。

自分が過去に書いていたmixi日記を読み返すと、あぁこんな面白いこと書いてたんだな、これを書きなおしたいなって思うエピソードがいろいろ見つかるのだ。むかしのほうが僕は感性が豊かだったんじゃないか。いろいろ感情をブチまけて書いていたじゃないか。ギャグも冴えている。そう思ってついついむかし書いていたことをブログにリライトしちゃいたくなるんだけど、そっちに頼ってちゃダメだよなって思って我慢するようにもしている。新しい文章ってのは無理やりにでもひねりださないと書けないものだね。過去の焼き直しばかりでは新しいことは書けないって、小説を書けない小説家だけどわかってきたよ。

過去に書いた文章があり、これから書かれる未来の文章があることを考えたときに思い浮かぶのは、やはり愛する女*2のことである。アルバム『日出処』の「」を初めて聴いたのが*3、発売日にアルバムを買いに行ったときのこと。忘れもしない皇紀2674年*411月5日、ところは東洋の魔都としてあまたの陰謀渦巻く帝都大田区蒲田のTSUTAYAだった。まわりのアイコーカどもは死武矢だと死ン塾だの栄えた町のタワーレコードで購入していたようだが、当時奴隷階級だった*5僕には蒲田で買うほか自由はなかった。そしたらそのTSUTAYAがね、新譜のアルバムを店内でリピートしているわけだな。ウキウキしながらスキップして行ったら、ちょうどお店でかかっていたのが「今」だったんだ。おっと、まだ聴きたくないぞ!おうちに帰ってからじっくり聴きたいんだ。今じゃない、今じゃない、いや、曲は今だけど、聴きたいのは今じゃないんだ、嗚呼、なんて美しいの、って感じで、耳をふさぎながら買ったのは良い思い出です。

過去と未来という対立するふたつの抽象的な概念と、そのふたつが接する情景である"今"を、言葉だけで色彩までもイメージさせながら描き出しているこの曲の歌詞は、現代詩の最高峰に位置しているのではあるまいか?と思っているんだけど、僕は現代詩を研究したことがあるわけではないので、この件をどこかへ訴え出たりはしていない。まぁその、個人的にスッゴいツボだったというわけだ。最高峰かどうかはわからんが、歌詞の短いフレーズから聴き手が莫大な情景・ストーリーを呼び起こせるのだから、優れた詩であることは疑いあるまい。僕のような無能な小説家は情景を描写しようと思うと無駄に言葉数を増やしがちなのだよな。抽象的な観念について書くときなんて特にそうだよ、無駄な言葉を書き連ねちゃアカンねん*6

歌詞の内容について、ふたつの相反する要素が溶け合う情景を描いた見事な内容であるという点でもう一曲、「天国へようこそ」日本語版のことも書きたいのだが、これはまたこんどしよう。僕はアイコーカのくせに、いっつもこの曲のタイトルが「天国ようこそ」だったか「天国ようこそ」だったかわからなくなる。不出来なアイコーカは地獄へようこそってかんじだよな。

 

むかし僕がフられた女の子は未来人だった。

いや、涼宮ハルヒのみくるちゃんみたいに未来から来た人間だという意味ではなく、なにかにつけて未来志向だった、ということである。今これをやっておけば後で役に立つから、今努力しておけば後で役にたつから、そうやって今この瞬間をより良い未来へと結びつけたがる人だったのだ。今ただしくあることが明るい未来へと繋がっているのだ、と。一方で僕は見ての通り過去に囚われた人間なので、リンゴの歌詞のごとくいつも黒々と澱んでおり、こんな冴えない今があるのは過去が冴えなかったからだ、ダメな過去だったからダメな今なのだと思っていた。このように今の捉え方が正反対な明るすぎる彼女と暗すぎる僕の生活はお互いの向き合い方の陰影をはっきりと浮かび上がらせ、当たり前のように別れを迎えたわけだが、暗黒のルーザーは眩しい彼女へ大いに憧れていたところがあり、フられた直後は「いつ死ぬの?今でしょ」って思うくらいにはツラかった。こんなことを思い出しながら今書いているこの新しい文章は果たして過去を向いているのだろうか、未来を向いているのだろうか。*7

*1:システムエンジニア

*2:椎名林檎

*3:英語版は前年の党大会で聴けたけどもね。班大会?そんなものは無かった

*4:2014年

*5:今もだよ

*6:観念・アカンねん、っていうダジャレ

*7:このフられた女の子のエピソードは、もちろん架空です。