アサヒ死ンブン

死骸ブログ

絶滅とはこれこのひとさし

マジマジのマジで人生がキツキツのキツだからハピハピのハーピーになりたくてストストの"ストロング"なお酒を飲んだら、なになにのなにもかもがムリムリのムリになってしまった。絶滅寸前だ。

 

コミュニケーションがしんどいわけではない、表面的なコミュニケーションは苦手ではない、しかし、対話的なコミュニケーションはお互いの主張に対するコメントのし合いのようなものだから、しんどい、しんどくないコミュニケーションができない、常にコメントしなきゃいけないのがしんどい、それでもコメントすることでしか他人と繋がれないから、疲れに負けてストロングを飲んでものごとにコメントする能力を失ったとき、なにもできなくなって、人生がムリになった。

 

これが絶滅のプロセス。たったいま滅んだ。絶滅した自分自身に回向している。寝て起きて酔いが醒めるとともに新生するであろう。忌まわしいコメント能力の再取得とともに。コメントなき連帯、つながり、おもいやり、友情、愛情、そういったものはなにひとつわからない。向けられないし、得られない。つらいな。

死んで生き返ってくりかえされる諸行無常

「長生きをしたいと思いますか?」という問いに対して迷わず「誰より長生きしたいと思う、まわりが死に絶えても自分ひとり生き残っていたい」と回答する。これは生きているうちにやりたいことがたくさんあるだとか生命を尊く思っているとかいうポジティヴな理由からじゃなくて、もっと吝嗇的なこと。僕はどんなに安っぽいものであっても自分の持ち物を絶対に失いたくないタチので、生命もまた失いたくないのだ。要するに「不老不死になりたいけどなれないならしかたがないからできるだけ長生きがしたい」ということなのだ。長生きのための努力はなにもしていない。若いころはあらゆることにビクビクしていたが、ちかごろは人生はいくらでも取り返しがつくしなんとでもなると思うようになったので、手取りがナンボとか食費に何万かけたらぜいたくだとかいう議論を見てるとアホくさいなと思っちゃう。いや、マジでこんな思考だから結婚できないんだし、晩年は「こんなはずでは……」って言いながら苦しんで死ぬ気がするね。

 

いままであらゆることにさんざん負け続けてきた人生なので、試合にこだわっていない風を装っているけれど、勝ち負けに対してはひと一倍敏感なのだ。争いに意味はないよ、勝ち負けにこだわるなよ、と言って試合を解体するようなことを言いつつ、そのまま勝負をしていれば勝っていたであろう相手の背中を刺したいと考えている。歌舞伎町のホストを刺すみたいに実際に刺しはしませんよ。比喩だよ。比喩的な意味で、刃を磨いている。芸能人のできちゃった婚ニュースに対して、AV男優が順序を守らない子作りはよくないというようなことを言っていたけれど、結婚が先であることが当たり前であるとすることすなわち子供ができることと婚姻が結びつくことの自明性を疑わないところが考慮足らずのチンポ脳だなぁと思った。正しいことは聞き飽きた。正しさの押し付け合いは見飽きた。ルールを作ることはゲームを作ることで、ゲームを作ることは世界を作ること。まわりの人間がみんなロボットに見えてしまって学校へ行くことをやめてしまった少年は、いつか自分自身が壊れたロボットであることに気づくかもしれない。ルールに従うのが嫌だから別のルールを作るんや、というのは創造的なようでいて、もっと大きなルールに縛られている。人間としてのルール、生命としてのルール、逃れようとしても逃れられない大きなルールを見ないふりしたいから、生命のことわりに逆らって無限に生きるようなことを考えちゃうのだ。

 

世の中には「これを見ずして死んでる場合じゃない」と思わされるものがやまほどあることを知っているので、なんとかして死ぬまえに死後蘇る方法を見つけ出さねばならない。

気づいたらおまえもなんとなく夏だったのか?

弟夫婦から「スイカ割りしよ!」というメッセージとともにみずみずしいスイカと彼らの飼い犬の写真が送られてきた。むかしスイカを被写体とした写真の著作権をめぐって争われた裁判があったことを思い出しながら、すっかり帰省の予定なんて念頭になかった僕は時にあらずと声もたてず、こちらからは猫の写真を送りながら「お盆は予定が詰まっていて帰省は難しい」と伝えた。アニメやマンガの描写でしか見たことがないスイカ割りに現実に誘われることがあるなんて、夏と聞かねば知らでありしを。

 

僕はこの夏、夏っぽいことといえば、扇風機で風を浴びながら猫とお昼寝くらいしかしていない。差し込む夏の日差しを避けながらゴロゴロしていると猫が首すじにもたれかかって甘えてくる。ナデナデ、ナデナデ……うとうと……

 

これまで関東の海で行ったことがあるのはえのしまの海だけで、その最初で最後の機会に江ノ島電鉄に乗って一緒に行った相手とは「いつか、かまくらにも行きたいね、幕府を見に行こう」と話していたけれど、かまくら幕府が滅びるより先に我々の関係のほうが滅びてしまった。海ゆかば、水漬くしかばね。まとわりつく蒸気のような空気と海辺の砂ぼこりを浴びながら互いに指先に相手の汗を感じて歩いていたはずだが、無限に核融合を続け地球上を焼き付ける太陽の日差しは光の豪雨の降るごとく、地上に落ちて乱反射した光の雨粒の膜に相手の顔も覆われて満足に見られなかった。見られなかったので、記憶のなかの相手には表情がない。相手の顔をよく覚えていないのは光の雨のせいで、僕が相手に対して関心が薄かったためではないです。海の水はまるで巨大な海獣から吐き出された直後の体液のようにぬるまっており、海水に浸された砂浜は生涯で見て見ぬふりをしてきた小さな罪の粒ようにこびりつき、ぬめりついてぬぐえどぬぐえど清められない。涼しさを感じさせるものは沖合を進撃する甲鉄艦の皮膚だけだった。「旭くんのスイカ、よく熟れているよ」という彼女の呼び声をきいて、はていつの間にスイカを買ったのかなと思いながら汗を拭おうと額に手を当てたとき、自分のあたまがスイカになっていることに気づくとともに、スイカあたまのなかに浮かんだのは泉鏡花原作の『草迷宮』の寺山修司版映画にでてきた化け物屋敷のスイカ妖怪で、そして、呼び声の方向に振り向いて最後に見たのは、振りかぶった金属バットを僕のあたまに向かって清原のバッティングフォームで振り切る彼女の姿で、つぎの瞬間にかまくらに行く機会が永遠に失われたのだった。

 

夏になるとみんなエモい文章を書きがちなので、僕も嘘っぱちを書いてみましたが、なかなか上手くいかないもんだな。

マジ(真剣)に精察しろ

諦めたらそこで試合終了だよ(明言されていないけれど、だから諦めずに最後まで戦うべきだ)というのはよく言われることだけど、一方で経済学的には、観はじめた映画がクソつまんない場合はどうせ映画代は返ってこない「埋没費用」なのだからとっとと映画館を出てほかのことに時間を使った方がよい、とも言われる。僕は恋っぽいことのために戦えないので諦めて試合終了だし、恋っぽいことのために時間を使えないしあらゆる費用が埋没費用のように感じる。

 

「天気の子」はすごく恋っぽかったし(すごいよかった)、さいきん読んだ古川日出男の『二〇〇二年のスロウ・ボート』は青春時代の恋っぽい思い出を振り返るはなしだったし(すごいよかった)、まわりには恋っぽい付き合いを経て結婚するカップルがたくさんいるし(すごいよかった)、世界は恋っぽいものにあふれている。

 

品質の悪い在庫の記録をしておこうと思って
「写メ撮っときますよ」
と言ったら、同僚から
「"写メ"って死語らしいですよ。写真撮ってもメールしないじゃないですか」
と言われた。
納得いかなくて
「は? "詰め腹を切らせる"って言葉、実際には腹切しないけど言うやろ?言葉だけ残ってるパターンやろ?それと同じちゃうんか?ちゃうんか?か?」
同僚は苦笑、スルー。さらにその理屈でいうなら恋はもう存在しないから恋は死語じゃないの?と言おうかと思ったけど、どうやら恋が存在しないのは僕だけなようなので、ここで僕が苦笑。

 

恋っぽいものは不要だし急かされても煽られても結婚したい気持ちはいっさいわかないが、まわりのひとがサラッとできていることが自分にはできないときにマジで他人との断絶を感じるんだよな。こどものころ空中逆上がりができなくてまわりと断絶を感じていたのと同じたぐいだ。

 

(自覚していなくとも)世界が自分ひとりで完結しているひとは世界との繋がりを考えることもなく、見たままのものがイコール世界なんだと思っていてそれで世界が成立している。彼らが読む本は自分(世界)のバージョンアップのためのものなんだろう。
僕は自分のそとに世界があって世界と断絶を強く感じているので世界との繋がりを求めて色々やっているけど、まったく繋がれる気配がないので、やはり世界はないのかもしれない。自分しかない、と考えるのが正解なのかもしれない。
それとも世界への繋がりを求めているつもりなのに"のれんに腕押し"なのは、やり方が悪いだけなのかなぁ?


「人生の不自由展」を開催したくなってきました。

嘘の向こうにあるものは本当ではなくまた別の嘘

子供のころに「お香典に包むお金は新札を用意しなさい!なぜならボロボロのお札は死ぬのを前から待っていたように思われるから!結婚式はその逆!」みたいな大人ルール(常識、マナーというやつ)を聞かされ、子供心に「へぇ〜なるほどね(しょうもな)」と思った記憶がある。記憶がある。記憶がある。記憶がある、と思っていたが、実のところこれは捏造された記憶だったようで、用意すべきお札の新旧マナーを逆に覚えていた。正しくは、結婚式のようなあらかじめわかっている式には新札を持って行きなさい、になるのだと。なるほどね(しょうもな)。味噌と理屈はどこにでも付けられるってことがあらためてわかった。試みに冠婚葬祭のマナーに口うるさいママ(実母)に「結婚式当日のおめでたい日に『カラマーゾフの兄弟』を読んでるのは縁起が悪いだろうか?」ときいたら「さぁ…」って言われたし、ひとびとの吉兆に対する意識なんてテキトーなもんだろうな。常識的に考えて、結婚式のようなおめでたい日に"父殺し"の文学を読むって、お札の新旧を間違えるよりはヤバイと思うんだがな。ヤバくない?
就職活動でビジネスマナーの本を読んで「タクシーのどの位置に偉い人を乗せるべきか」みたいなことが書かれているのを知ったころから(そうすることに必然性のない)マナーがこころから嫌いになって、可能な限りぶち破っていこうと決意した。たとえばネクタイを付ける意味がわからなくって、ネクタイが役立つ場面というのが怪我をしたときの止血以外に思い浮かばない。「あれはオシャレなんですよ!」とか言うのはやめてくれ。「弊社の志望理由を述べよ」に対して「お金が欲しいから受けました」と同じくらいトンチンカンな回答をしていると気づけ。誰も胸に布キレをぶら下がることに疑問を持たない社会なんだから、こんりんざい天皇制だってなくならないだろうよ。民主主義とは"棚上げ"主義のことなんだろう。ひとは自分に損のない(と信じている)ことは現状維持を押し通すものなのだ。
じっくり考えてみると、アホみたいな理屈をもって意味のないことに意味をつけて"飛躍"を生むという点で、公共的な「常識」と「ネタツイート」には構造的に似てる部分があるように思う。常識は屁理屈みたいなもんだけど、屁理屈みたいな常識があったほうが生きやすいと考えたひとたちが屁理屈によって意味づけをしたようなものだし。ネタツイートは意味のないところに意味をつけて笑いを取るもので、ネタツイートの上手さは屁理屈の上手さと一致する気がする。
また常識をいかに外してネタにして笑いを生むかという工夫を凝らせるかということで、ネタツイートが上手いひとは感覚的に常識をよく識っているのだと思う。常識が常識としてあること、常識の「公共性」を理解しているからネタツイートとして笑いのネタを生めているのであって、根底から"常識外れ"なわけでないのだろう。常識を知らなければ常識を破ることはできない。
というわけで、僕はいつもクソみたいなことしか書いておらず常識はずれなように見せていますが!ホントは常識人なんで!!まともな人間なんで!!!好きになってください!!!!もっと好きになってください!!!!!お願いします!!!!!!!

信じない者にならないで信じる者になりなさい

十二使徒の一人でディディモと呼ばれるトマスは、復活したイエスがやって来たときに他の弟子たちと一緒にいなかったため「イエスを自分の目で見るまでは信じない」というようなことを明言したんだそうだが、そんなことよりも、僕が知っているバカな女は、僕がさんざん諌めていたのも聞かず「あの人の人柄は自分の目で見て確かめるから」と言ってみすみすクソ男のところに行き、そのうち男の都合で呼び出されて経済的にも性的にも搾取される奴隷になっちゃった。そういうケースに何度も出くわしたことがある。
どうしてこんなバカなことが起きるのか? 自分の目で見たものってそんなに信用に足るものだと思っているのか? 見えていないもののほうが大きいとは思わないのだろうか? イエスは<ワタシヲ見タカラ信ジタノカ。見ナイノニ信ジル人ハ幸イデアル>と言った。これらの"どうして"を考えていてふと思いついたこと、見たものを信じるか否かの考え方と視力には関係があるんじゃないか。僕は自分の目で見たものだからって用意には信じることができないんだが、それは小さいころから近眼だったためかもしれない。見えていると思うより、見えていないと思うことほうが多かったんだ。彼女たちはなまじ視力がよかったから自分の見ている世界がそのまま<真実>であると思っているのかもしれない。目の前のことが鮮明に見えてしまっているから、見えていない部分のことを考えたことがないのかもしれない。まぁ、視力検査をしたわけではないので確かではないな。単に愚かなのかも。
ところで僕は前述のとおり視力が悪いので常にメガネをかけているんだが、実弟の結婚式のおり丸メガネをかけて行き、披露宴で寿ぎの言葉をかけに行ったら、弟から「戦時中のダメな将校みたいやな、あの、牟田口?」と煽られ、「インパール作戦ンンン〜」って応えました。牟田口中将は、旧日本軍のなかでも最低最悪の将軍です。Wikipediaで読んだだけでゴミカスっぷりがわかります。ってか、なんであいつは牟田口とか出てくるんだ。カラマーゾフの兄弟って感じだね(?)

羅生門の下で雨やみを待っていた

魂魄が霧散しちゃったのだろうか、あらゆる言葉が出てこなくなっちゃった。

日常において自分のまわりで"事件"が起きず、なにかあっても140字に収まっちゃうことばかり。なにも起きないんだよ。わざわざ書き連ねることがない。実はたいへんなことが起きているのだが、僕の近眼の目に止まっていないだけかもしれない。あるいは感覚が鈍すぎて感知できていないのかもしれない。とはいえ事実ベースではなんもない(と思っている)ので、会話においても面白い話ができないし、ツイート程度の短い文章においても面白いことが書けないから、いよいよ想像力および創造力を鍛えなきゃいけないなという焦りが発生してきた。いっつも面白いツイートとかブログとか絶え間なく書いているやつらはなんなんだ?たとえ内容は盛り盛りの嘘八百だとしても、嘘八百をずっと書き連ねられるのがすごい(嘘八百じゃなくて真実一路だったらごめんな>面白いやつら)。

 

というわけで、作り話の練習をしていきます。ここから先はフィクションです。

 

梅雨入りしましたね。僕は傘を持たずに外出しがちなので、その日も出先で雨に降られ、羅生門の下で雨宿りをしていました。なにぶんスマホのない時代のことだから手持ち無沙汰で、歌でも詠むかと思い、「あめのひを、くちぶえふいて、すごしたら」と上の句のつぶやいたところで、近くで同じく雨やみを待っていた黒髪おかっぱ前髪ぱっつんの魔性のおんなが「幸も不幸も、流され消えた」と下の句を横から差し挟んで、そのまま意気投合、「言語で足りない部分は肉体表現を交えて補うかたちで文学の研究をしよう」と言って羅生門を離れラブホテルにしけ込むところから始まる大人の恋愛のはなしを書こうかな思ったんだけど、これでは芥川龍之介の小説と羅生門の鬼のエピソードのパクリの融合だから新規性がないし、なにより、おもんねえ………………