アサヒ死ンブン

死骸ブログ

また僕は『嘔吐』する

【クソなぞなぞ】
Q.自動で口から胃の内容物を吐き出すことってな〜んだ?
(解答は記事の一番下にあります)


朝から活動しようと意気込んで早起きしてい家を出たら、目的地へ向かう電車のなかで胃腸が突然ツラくなって、マロニエの樹の根を見たところで吐き気こみ上げ、駅のトイレで吐きまくって一日の予定が台無しになったのは本当に意味わからなかった。ごくたまにこのように腸の具合が悪くなった影響で胃も悲痛な打撃を受けてこんな目に遭うことがあるのだ。おなかの調子が悪い時は無理をしないのが一番だとも。「我慢して行けるところまで行ってみる」という思想は良くなかった。焦るとものごとは上手くいかない。焦ったときは、やることを極限まで減らす、ウザいものをシャットアウトする。これが基本だね。

むかし大手音楽雑誌に有名な"毒舌"(笑)レビュアーで「サルトル言うところの『嘔吐』」が決めゼリフなひとがいて、こいつがサルトルを読んだこともないだろうし毒舌というかただ悪口の列挙でなんのレビューにもなっていない。ツイッターがなかった時代だから娯楽のない若者にウケて生きていられたんだろうな。いつ死んだのかは知らないけど、雑誌が一方的に情報を与える環境が崩壊したのち、そんな珍粕(ちんかす)をおもしろがってっからまともな音楽も音楽批評も育たなかったのでは?としか思えないが、死人のことなんか考えるのは時間の無駄なのでどうでもいいですね。


A.嘔吐(auto)

マジで・ルーザー ・狂う・寸前(略してマルクス)

カール・マルクスは人間と動物の違いを「生活手段を自ら生産できるか否かである」と考えたが、これは大人と子供の違いにも当てはまるなぁ、と思うのだ。よく(?)子供とは?大人とは?みたいな間抜けが議論がトゥイッターで行われてることがありますが、これで説明すると割りと明快じゃねえすか。ガキのころは親の経済力に抑圧される生活がイヤでとっとと大人になりてえと思っていたよ。

「子供の豊かな感性」みたいな大人の言い分も片腹痛えンだ。本気で言ってんのん?未熟なものの中から大人が良しとしているものを選んでるだけのことじゃねえか。僕は子供時代の作文や美術だか図画工作の授業なんかすべて大人のクソルールに抑圧されているとしか思えなかった。いまでもそんな大人たちの抑圧を恨んでおり、隙あらばかつての大人たちの背中を刺したいが?あぁ、ここに「大人を殺したいと思う気持ちを持つ者が子供である」という新定義が完成しましたね。

つってもこんなこと書いておきながら僕は学生時代は精神が衰弱していたので引きこもってアルバイトもしてなかったんでつが(爆笑)

アサヒのヒはヒラガナのヒ

若い頃は文章に於いて漢字に出来る箇所は凡て漢字で書く様な痛い学生生活を送って居り、此れは椎名林檎のオタクが悉く皆が通る道だと思うんだが、ちかごろはひらがなで書いても読みまちがいの起こりえないことばはすべてひらがなで書きたいと思うようになってきた。ひらがなのほうが読みやすいよな。読みやすいと思うようになったのか。脳みその情報処理能力が落ちているのかもしれない。情報処理能力が落ちているといえば、うちのパソコンはボロすぎるせいかな、「令和」が変換できないし、さっき上の分を書くにあたって「可読性」って言葉を使おうと思って変換しようしとしたら「可毒性」にしか変換できなかったんだが、可毒性ってなんなんだよ、そんな言葉はねえよ。な?

ひらがなで書きたくなっている、というよりは、漢語よりもやまとことばを使いたいきもちが強まっているというほうがただしいかもしれない。すこしはなしがそれるけれども、やまとことばでいうとひとつ、短歌のお兄さんと話したことがある。現代短歌においてなんで未だに古くせえ言葉が使われてんだろうな?ってのはまぁ、それに代わる言葉が生まれ定着してないからだろうとしか言いようがないと思うんだが、やっぱヘンくないですかね、短歌用語の古くさいことば。たとえば「相聞」が恋愛ジャンルのことを指すとか古典の授業の九割を寝てすごした僕みたいな人間には馴染みがないし、「詠草」ってのは詠んだ歌のことだというが音だけ聞いたら軍隊用語の「営倉」が先に浮かぶし、「吟行」って僕は愚かだから読めないし音を聞いたら「銀行」としか思えない。もっとイイカンジに言い換えられるやまとことばはないんすかね。まぁないからみんなこれらを使っているんだろうけど。えらそうなことを申し上げましたが僕は短歌をめったに作らないし、文句をつける意味もないし、まじめなひとに刺されそうなことは言わない方がいいのかもしれないな。

朝日キル子の憂鬱

サンリオのソシャゲをやってよと誘われたので、取り急ぎアプリをダウンロードし登録したのだわ。正直もうソシャゲをじっくりやる余裕はないのだが*1、カワイく生きたいのでサンリオもポツポツとやっていきたい。

いまだにサンリオのキャラクターたちがどういった設定の生命体なのかわかっていないけど、全体的にカワイイので良い。登録する自分のアバターはこれまたカワイイ女の子のなかから選ぶ。黒髪オカッパ前髪パッツンが好きなので、それにもっとも近いものを選んだ。キャラはシナモロールの部屋を選びました。選べるのがハローキティマイメロディリトルツインスターズ(キキララ)、ポムポムプリン、シナモロールからだったんだ。ファンシーな作品に触れる機会がないのでそもそもキャラクターを熟知しているわけではないんだけど、ディズニーだと"しあわせうさぎ"のオズワルドが好きだ。

名前は15秒で思いついた「朝日キル子」にしたんだけど、よくないすか?

キル子の"キル"は「kill」あるいは「斬る」。今後、女性のペンネームなどを使う必要が生じたらこの名前を用いていこうと思う。

このたび女の子の名前のアカウント作ってみると、十年くらい前にmixiネカマアカウントを作ってジャンジャンバリバリ運用していたことを思い出しました。男から気色の悪ィメッセージがどんどん来るの。2ちゃんねるとかに晒していたわけだ。あのころは楽しかったな〜(まったく良い思い出ではない)

*1:Fate/Grand OrderKOF Allstarは全力でやってるし、ガンダムロワイヤルも始めたのでこれだけでもう精一杯だ

令和元年のスターバックス

元号がかわって世の中の多くのみんなが新年気分で気持ちを引き締めているなかで、ひとりカーニバル感に酔った僕は気が緩みまくっており(休日出勤の疲れからかもしれない)、生まれて初めてスターバックスでコーヒーをぶちまけた。そりゃガキの時分には食事をこぼすようなこともあったかもしれないけどそれはノーカンとして、液体をぶちまけて困った思いをしたことなんていつぶりだろう?ぶちまけられたスターバックスコーヒーは燎原の火のごとくとなりの席のひとの手帳を侵していったが、となりの席のひとは笑って許してくれてすぐにどっかに行った。内心はブチ切れていたのかもしれない。コーヒーに砂糖とミスク入れて、片手で読んでいた本を抑えつつ、スマホをよそ見しつつもう片手でかき混ぜるという不精をしていたのがブチこぼした原因なわけだけどさ。読んでいた『薔薇の名前』が『珈琲の芳香』に変わったね。ほんとにイラつくねえ、我がことながら。『薔薇の名前』以外に自分には被害なかったからそのイラつきも十五分くらいで消えたんだけど。てかさ〜前々からうさんくさいと思ってたんだよ、スターバックスのノッポの紙コップ。いつか事故が起きると思ってた。マジ嫌い。スターバックスでマックブックエア使ってるヤツら嫌い。スターバックスにいるカップルみんな楽しそうで嫌い。別れろ!

SNSを辞めろ

ティンダーで
  マッチいっぽん
    火事のもと

これは僕が作った句なんですが、江戸時代にスマートホンがあったなら間違いなくエロ・色恋川柳集『誹風末摘花』に収録されてたろうなって名句じゃないですか?

ティンダーってのは要するに出会い系アプリで、次々と出てくる相手(異性に限定したものでなく性的指向の設定ができる)の写真を見て、気に入ればLIKE・気に入らなければNOPEの評価をつけ、相手も自分をLIKE評価したならばマッチが成立、そうするるメッセージのやり取りができるようになり、あとは良いようにメッセのやり取りで仲良くなり煮るなり焼くなり好きにしろってわけだよ。無料版にはLIKEの数に制限があり、課金すると制限がなくなる。うさんくさいアルゴリズムだよね。今日はこのティンダーを含め、SNS的な繋がりがいかにしんどいかって話がしたい。別にマッチした女から返事がこないから八ツ当たりで書いているわけではない。

まず、おもしろい女はティンダーなどやっているひまがないはずであるから、ティンダーにはおもしろい女はおらず、原理的にティンダーでおもしろい女とマッチするわけがない。まぁ、おもしろいかどうかはひとによるから、これは異論があるかもしれない。いないと思うけど。まぁそんな冗談はどうでもよくって、ひとの関係について考えたくって、人間関係ってのは本来、お互いの気に入る部分と気に入らない部分を受け入れたり拒絶したりを繰り返して妥協したり、より良い関係を築けたり、やっぱりだめだったりしていくわけジャン。最初はムリだと思っていた相手が受け入れられるようになることがあるのは、会話をして弁証法的に関係を築いていくものだからだろう。それをマッチするかどうかという対幻想に訴えて始めようというのがまず僕にはムリっぽく、さらにいうとメッセージのやり取りもリプライのし合いも会話ではない。ティンダーだけじゃねえや、ツイッターでもミクシーでもなんでもいい、インターネットのSNSサービスにおいて文字列を額面的にしか受け取れない"ターン制"の応対を繰り返すのは本当に疲れる。マッチした女との応対が噛み合わないことへの八ツ当たりで書いているわけではない。

対面あるいは電話での会話はリアルタイムで相手の思考を書き換え合う行為だから、パーソナルスペースのように相手によって許せる(物理的ではない)距離感が違ってくるけれど、距離の取り方を変えることで付き合い方を変えることができるわけだ。嫌いな相手とでも、"それなり"の付き合いができうる。が、SNSでは言うべきこと文字化されて、しかも受け答えに"ターン制"を強いられることでどんな相手ともフラットな対応をしなければならない。いやになったらブロックあるいは無視することはできるけれど、そこに"それなり"性はなくて、断絶が生まれる。会話も一見お互い相手の言うことを聞いて返事を考えるわけだからターン制っぽく思えるけれど、相手の言うことを聞きながら・あるいは自分がしゃべりながら話す内容がどんどん書き変わっていくところにリアルタイム性があって、このリアルタイム感覚を共有できる相手とは会話が弾んで楽しみが生まれるのだと思うのだ。まぁ、逆にいやな会話をブロックできないのがリアルタイム会話のしんどさなのだろうけど。僕はツイッターでムリな奴を見かけたら「キモッキモッキモッ」って言ってからブロックしているよ。具体的には百田尚樹と恋愛工学を読んでいる奴だね(これは悪口だ)。決してマッチした女との趣味が合わないことへの八ツ当たりではないよ。

ターン制ってことでいうと、インターネット以前の手紙のやり取りも同じような祖語というかうまくいかなさってのあったと思うんだよね。太宰治の往復書簡体小説『風の便り』はそのうまくいかなさを揶揄した内容だと思うんだけど、僕は手紙のやり取りしたことないし、ほかにエビデンスはないわ。ちなみにティンダーで太宰治好きの女とマッチしたことはないですね。別にしたくもないけど、八ツ当たりではないです。

そして、あらゆるテクストにはコンテンツとしての側面とコミュニケーションとしての側面があり、SNSのプロフィールに好きなものを書きたくなくなったり、本当に好きなものについて書きたくなくなったのは、ツイッターなんかでこの「コミュニケーションの側面」ばかりに血道を上げている奴らを見るのが心底イヤになったからなんだよな。ムリな形態のメディアで好きなものについて消費的なコミュニケーションを取るのは、もう、地獄的に嫌いだね。これは八ツ当たりだ。インターネットには嫌いな奴が多すぎる。

というわけで、フォローだとかマッチだとか繋がりをON/OFFでしか見られないbooleanな関係がときどきすごいしんどくなるわけだね。それに対して、アカウントをしょっちゅう消してすぐ繋がりが希薄になるくせに、よみがえるたびにちゃんと連絡くれるゾンビみたいな女の子も何人もいて、そういうひとは大好きなんだよな。きっと彼女たちはSNS的な繋がりとはちがう関係性を持ってくれているんだな、と感じられる。ゆえに好き。まぁ、ゾンビちゃんたちは僕のことを好きになることはないんでつが(爆笑)

ディズニーランドに住もうとおもうの

パパ活をしてきた。パパ活といっても、パパを見つけてイイコトしてお金をもらうわけではなく、パパになってイイコトしてもらってお金をほどこすわけでもなく、実父と会食をしたのだ。パパは郷里(くに)から出てきてわざわざ僕に会いに来た。定年を迎えたばかりで時間はあるのだそうだ。

僕の弟が近々結婚するそうだ。なぜ伝聞体なのかというと、当の弟からは嫁の情報も結婚式の情報もいっさい送られてこないからだ。親からウワサを聞いていたのみだった。じつは嘘なんじゃないかと思っていた。本当のことらしく、結婚式の日程をこの日父親から教えられた。

「いつまで経っても連絡がこないから行かなくていいのかと思っていたよ」
「絶対にこい」

などと言われた。はなしの流れから、当然のことながら、僕の事情についてもきかれるのだ。
「おまえはないのか。その、結婚の見込みとか」
「ないです」と答えるほかない。
「お母さんが心配しているよ。別に無理に考えろというわけではないが、すこしでも考えがあるならばきかせてほしいんだが……」
ママを引き合いに出されても、ないものはないんだよな。
「結婚への意思がないわけではないが、本当にないよ、見込みもないし、得る気もないし、結婚相談所も婚活パーティも行く気はない。物理的にないので、ないんです。女に興味がないわけじゃないって。はなしの合わない女はムリなんだ。気が合わない女といる気はないってこったよ、父ちゃん」
「寂しくはないのか」
「うちには猫がいるし仕事は楽しいし友達多いので、人間関係資本(猫も含んでいるが)はまぁ足りている」
なんで親とこんな会話しなきゃいけないんだろうな。

両親とも弟とも仲が悪かったわけではない。家族のことが嫌いではない。親には感謝の気持ちはあるけどJ-ヒップホップのリリックみたいに過剰に感謝する気はないし、思春期のころには人並みに家族を枷だと思うようなことはあったけどそんな気持ちもいまは遠く、そもそも振り返ってみればむかしから家族というか、生まれに善し悪しを感じてこなかったように思うな。幸も不幸も感じない家に生まれてきた。まぁ世の児童虐待のニュースを見ていると、こんなノンキなことを言ってられるだけ幸福なのだとも思うけど。どうあれ自分のなかに家族の特別感というのはとても希薄で、細くとも切れずに繋がっていればいいやくらいのものなのだ。家族や親族の外にさまざまな人間関係資本を築ける時代だからそう思えるのかもしれない。きっと親が死んでも、悲しいは悲しいけど、そりゃいつか死ぬわなという気持ちも同じくらい抱くことと思う。必要以上に悲しむ意味なんてないだろう?ひとは基本的に自分のために生きるものだから、当人が自分の生をまっとうできるかどうかが問題で、そこに家族のつながりが求められるなんて信じられない。否定しているわけでない。本当に信じられないのサ。

絶対にこい、と言われたけれど、肉親の結婚式なんてのも絶対に行かなきゃならないものなのか?家族と勘当に近い確執があれば行かないことに大きな意味があるんだろうけど、そうでなくて、肉親でもそうでなくても、勝手に幸せになっていればいいんじゃねえかなって思うのだ。僕は世のなかのみなさんがいう幸せなんてよくわからないものは放棄することにしたし、ほしくなったら幸せを自分で再定義してお前たちとは異なる手段でそれに迫るよ。「愛」は"いまここ"にあるものでなく振り返って「あれは愛だったのだ」と過去形でしか測れないものだ、という思想を持っているので、愛に基づく連帯なんてものも信じていない。ひとのことをあんまり信じていないんだよな。誰かから信じられていると思えたこともないので。

僕はディズニーランドもシーも行ったことがないのだけど、きっと恋人と一緒に行っても家族で行っても楽しいところなんだろう。僕には縁のないところだよ。