スパイシー
みんな生きてる?
僕は死んでいます。
お金がないと誰とも遊べません。
誰からも顧みられない幽霊なのです。
成仏した〜い(笑笑)
死〜ん
ちかごろ、お金持ちをフォローして特定のツイートをRTして当選したらお金がもらえるという、ドストエフスキーの小説にでもでてきそうな遊びが流行っていますね。僕はもちろん目に付いたものをRTしていますが、なかにはこころが繊細なひともたくさんいるらしくって、金持ちの道楽を見て「いらつく」「いやな気持ちになった」「あさましい」だのと、いや〜お前たち、世界の富は数%の金持ちに偏っているという現実を見て見ぬ振りをして自我を保っているくせに(それともまさかそんな現実があることを知らないのか?僕は現実を知りたくないので正確な数字を知らないが?)、あるいは労働基準法違反の超過勤務をして苦しみながら不法なお金をもらうために働くことは我慢はできるのに、運以外の条件のない"払うだけ"の行為は刮目して見たうえで我慢できずにありとあらゆる感想をもち、また、意味付けをするのだな。
"殿のお戯れが始まったわい"くらいの気持ちでいられないんだろうか。暗君の理不尽な上意討ちに対して生命倫理を問うくらい無意味だよ。無駄無駄。金持ちはあらゆることをするし、金の亡者はなんでもするし、お金に群がる人たちは難しいことを考えていないよ。
と、かようなぐあいに、なにゆえ今回、いつも「資本主義が打倒されなけれ永遠に彼女ができない」と主張している僕が金持ちを擁護するようなことを書いたかって?
部屋の更新料が払えないんだ。更新料って知ってるか?中世ヨーロッパにおいて人々が高値で取り引きしたスパイスのことじゃないぞ?*1ほかの地域ではどうだか知らないけど、首都圏では賃貸の家に住んでいるとおよそ二年に一度、家賃分を更新料として払わなければならないクソ契約を結ぶんだ。年貢みてえなもんだな。バックレてもいいのかな?
もうすぐ更新の時期なんだが、僕はただでさえ貧乏なところに先月ヤクザな県民税を払わされ、素寒貧。このままでは更新料が払えないので、金持ちのツイートをRTしてお金をもらうほかに生き抜く道はないのである。ゾゾさんのは当たりませんでしたが、ゾゾさん、第2弾第3弾をやってください。100万円なんて言いませんとも。家賃分の7万円でいいんです。あ、家賃に加えて2・3回ほど飲みにも行きたいので8万円くれ。まじで。お願いしました。
【家畜が餌を食うことは家畜自身のよろこびであるからといって、それが資本の再生産過程の一環であることに変わりはない】というのは『資本論』の言葉だったか?それとも聖書か?どっちでもいいんだけど、我々はみずからが精神的に高尚な生き物だとか勘違いをせず、家畜であることを思い知って金持ちをRTするのがよいと思いますよ。そしてお金が当たったら僕にメシでも奢ってください。更新料くれなんて言わない。寿司で構いません。寿司は回っていても結構です。本当によろしくお願いします。
*1:それは"香辛料"だ
古典風
こないだひとと電話で話していたときに、主に書籍についての「"古典"のもつ意味」みたいな話をしていろいろ語ったのだけど、その後ちょっと考えてみたことをメモがわりに書いておく。読書会の時などに語れるかもしれない。
"古典"という言葉を使ったときに意味するところとして思い浮ぶことがみっつ。もっといろいろ考えられるのだろうけども、とりあえず。
ついでにそれぞれの意味における「古典を学ぶ・読むことの意味はなんだろうか?」という問いへの回答的なものも考えた。
その①
たんに成立年代が古いものを指して古典文学だとか古典の作品だというもの。
ただし"古典"という言葉から真っ先にイメージされる古い作品、たとえば「万葉集」や「源氏物語」やそのほかのようなものは、成立して以来おおくのひとに読み継がれてきたなかで注釈がつけられたり解釈が与えられたりし続けられているものだ。それら注釈がなきゃいまのようにお手軽に古典作品に親しむことはできない。(←読みかじったようなことを書いている)なのでこの意味でいう古典はその作品単体を指すものではなく、作品への積み重ねを包括した総体としたものだと言えるのだろう。
日本語のくずし字や古典文法がそれなりに知識がなきゃ読めないのは当たり前だし、古典英語で書かれた「ベオウルフ」はいまの英語の面影がなくって(←勉強すりゃわかるのかもだが)マジでなにがなんだかわからなかった。
で、この場合の「古典を読む意味」的なものは、めっちゃむかしに成立した書籍とそれを読み継いだ人々の考えたことをトレースできるということ。さらにそこから新しい読み方を見出していけるということ、もある。「源氏物語」は谷崎潤一郎や与謝野晶子、瀬戸内寂聴などなど多くの作家が翻訳しているけど、それはその時代その時点における現代的なまなざしを持った再解釈をしているのだと言えるのだろう。
まぁ僕は源氏の原典も訳も全然読んでないんだけどね。江戸時代に出たパロディ本、柳亭種彦の「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」は読んだわ。ろくに原典を読んでないのに偉そうなこと言ってると怒られそうだよな。
その②
ある価値観の転換が起こったときに、転換以前の価値観のもとで書かれたようなもの。戦前の天皇をトップに置いた国家観で書かれたものはたった100年前のものでも古くせえなって思う。100年という時の隔たりが長いか短いかはひとによって違うだろうけど、①で言ってる意味の古典作品に比べたら圧倒的に新しいだろう。
大正時代に書かれた厨川白村が自由恋愛の素晴らしさを説いた本を読むと、当時のひとは現代だと当たり前のこんなことで大騒ぎしていたんだなって感じる。実際、自由恋愛的な考えが広まった前後には厨川白村はまったく読まれなくなっちゃったそうだ。僕はたまたま読んだだけなんだが。
この意味でいう古典を読む意味はわかりやすい、価値観が転倒する前の価値観を知ることができるということか。"セクハラ"という言葉がなかった時代のことを考えるのに、想像力だけでは限界があるわけだ。
今後延命治療や生命維持のテクノロジーが発達したら死生観も変わりうるだろうし、そうなると古典哲学や宗教的な経典の解釈も変わってくるかもしれない。そういうのもここに含まれるかもしれない。
その③
ある研究分野の始祖的な位置付けの本を古典と読んでいるようなもの。
ナショナリズム研究の先駆けとして有名なベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」は1983年とつい最近出たものだけど、のちにここを原点としてナショナリズムについて論じた本がたくさん出たこともあって古典のような扱いをされている。というような感じですかね。
これは古典を学ぶ意味というか、その分野の先行文献を知るということになりますかね。
書いててめんどくなってきたのでもうやめるけど、どれもきっと「古典(作品)」が単体としてあるわけじゃないんだよな。だから作品単位でこれを読む意味は?みたいなこと考えても意味がないというか。研究するわけでもないなら、そんな意味を問うくらいなら好き嫌いで判断してイヤなら読むなよとしか言えないというか。
死ね
むかし転職を考えたときになにか新しいスキルを身につけたいと思って、そうだ文章を書けるようになろう!と考えた。文章は文章でもライター稼業のようなものではなくって、ビジネス文書のハイレベル版というか、たとえば製品や商品のマニュアルのようなだれが読んでも間違いなく伝わる[はず]の文章をキッチリ書く技術のほうだ。僕は小説創作が書けない、人を笑わせる面白いことが書けない、人を幸せにするこころあったまることも書けない、人を騙したり劣情を煽る文章も書けない。アジビラも書けないからオルグもされない。ならもう、徹底的に技術に寄った方面しかない。国家資格みたいな公的なものではないけど検定のようなものがあったはずで、そういうのとっておけば面接のときに話のネタになるかなと思ったのだ。そう考えてそういった文章を書くルールの教科書的な本を買った。ふだん何気なく使ってる言葉が意図せず読み手のカンに触ったり不快に感じさせないかといった配慮など、確かになぁこういうの大切だな、って思える箇所はたくさんあった、が、すぐに諦めてしまった。正解がある文章を覚えるのがこんなにもメンドくさいことだったとは。僕は性格が悪いので、知り合った奴が死ぬほど嫌いだったとき、それでも憂き世の義理でSNSで繋がらなければならなかったとき、しかたなく繋がった上で「今日はありがとうございま死た!これからもよろ死くおねがい死ます!」といったように相手を呪うワードを混ぜ込んだDMを送ってミュートしている。いや、さすがにこんなのは、本当に死んでほしい奴にしかしませんけどね。「死んでください」って直接言うとカドが立つ時の創意工夫だよ。いや、難しい。書くことはなにもかも難しい。なにも書けないことを棚に上げてひとの悪口を書きます。僕は人にものを伝えることの難しさにいつも苦しんでいるので、人にものを伝えることをないがしろにしている奴らが本当に嫌いなんだ。シロウトが「小説書いてみました~」みたいなことを言ってるのがクソつまらないのって、事件の羅列でしかないからなんだよな。事件要素をアイテム化して並べてるだけ、読み手の心理に変化影響を及ぼさない。下手くそな異世界転生モノがよい例かな。同じフォーマットで書くならよっぽど独自要素を練ってみろよと思うけど。思わないのかな。ポップスや軍歌の歌詞でつまらね~な~のが多いのも、音楽は音韻に縛られてるから一層なんだろうけど、おんなじような言葉ばっかり選ばれてるからなんでこいつらは同じことばっか言ってんだろうって思っちゃうのだ。偉そうなことを書いちまったね。読みたくないものを読みすぎて精神が疲弊しているせいだよ。主にツイッターのせいですけど。説明能力がないくせに人にわかってもらえていると思ってバカみてえなことほざいてる奴が嫌いなんだ。ろくに説明する努力もせずに喚いたらわかってくれると思っているのだろう。イキったもん勝ちみたいなインターネット文化は見ていて本当にイライラする。包丁を研げない板前が味について語ってるような間抜けさがある。そんな板前が存在しているのかわからないが。板前の味覚論を解釈してあげてる味通みたいな奴らもムリ。タイトルだけ入れ替えたらなにを対象としてても成り立つような感想文かいてるのもムリ。クソポエムにクソポエムで返信してるのとかもっとひどい、まじで汚染でしかない。あいつらコミュニケーション障害だろ。インターネットを離れた日常生活でもそんな感じなの?ものごとを説明する努力怠ってんの?説明する能力がないの?まじでどうやって生きてるのか、不思議でならないよ。インターネット以外では無口なのかな。甘やかされてんのかな。インターネットでは構ってもらえてるけど日常では精神障害者だと思われて避けられてんのかな。どれですか???
市民税・県民税を払う金がない
おまえは女の子から自分のどこを好かれうるの?
昨夜とつぜん「おまえは女の子から自分のどこを好かれうるの??」という問いを突きつけられ、まともに答えられず精神が壊れそうになった。問いのナイフを突きつけてきたのは、さいきんカレシができたらしく幸せオーラを滲み出しているけれど、実のところ本当は僕のことが好き(だと僕は思っている)な女の子だ。
そうしてこころはずたずたになり、でもでも、翌朝はんぶん憂鬱な気持ちを引きずったまま映画の『さよなら、僕のマンハッタン』を観ていたら自分にもなにかできそうな気がしてきて、このままなにかしら頑張れば誰かから好かれる可能性が生じるんじゃないかという勘違いが生まれてきた。映画一本、アイドルのライブ一本で元気になれるタチなのだ。気分をポジティブな方向に切り替えられるというわけじゃなくて、負けていられない、自分もなにかしなきゃ!という気持ちになるんだな。死んでいる場合じゃない。死んでいるひまがない。このようにちょっとした作品やひとの言葉や見た目から影響を受けやすい人間だもので、たとえばブロガーのハーチューのことは大嫌いだけど、万がいちハーチューが黒髪お河童前髪ぱっつん女子になったらてのひらクルクル大好きになる可能性が高い。
しかし冒頭の件の回答については考えても考えても答えがでない。ひとから「あなたのこういうところが好きです」みたいなこと、言われたことがない気がするんだよな。言われた記憶がない。*1たぶん僕には褒めるべきよいところがないってのが大きいんだろうけど。理屈っぽいし性格悪いし、趣味もないし特技もない、履歴書の"趣味・特技"欄には「読書」って書いた気がするけど、趣味が読書ってなんだよ、いったいなにをする趣味なんだよ。本を読んでるひとをバカにしてるわけじゃないですよ、まいにちなにか読むのが当たり前すぎてこんなもの趣味と呼べないだろ、ってことを言っている。
僕はひとのこと褒めれない*2性格なので、人を褒めることがない。褒めなきゃ褒められることもないわな。褒める語彙を持たなけりゃ自分が褒められていることにも気づかない、ということかもしれない。「あなたのこういうところが好きです」を、具体的に評価の対象を挙げて肯定的な評価するようなこと、むかしから苦手でできないんだよな。嫌いな奴の嫌いな点を述べ立てるのは大得意なんだが。捏造だってお手の物なんだが。
そこで、人類の英知の結晶、ヘルメス・トリスメギストスの賢知たるGoogleで「人 褒め方 モテ」で検索してみたんだ。必死なんだよ。女を褒めてモテたいんだ。そしてて、あるサイトを開いて褒め方のコツとやらを読んでみた。思想書も読むしオシャレファッションブログだって読む。必死なんだよ。現在の中国共産党委員会が、かつて"お城"と呼ばれ帝冠様式の異様を誇った旧日本軍の関東郡司令部建物を使い続けているごとく。元カレにもらったものを平気で使い続ける女も大好きだ。
女の褒め方解説サイトいわく。前提条件"相手の目を見て満面の笑みで褒めること"ってこれ、僕がやるとキモ☆オタクのニヤニヤ笑いになるけど大丈夫ですかね。大丈夫か。僕の笑顔も案外イケてるのかもしれない。ひとつ、女の頑張り・仕事ぶりを褒める。一生懸命だね!大変でしょ!頑張ってるね!努力家だね!あぁ!なるほどね!つぎは?つぎは?ひとつ、外見ではなく内面を褒める……ひとつ、センスを褒める……
めんどくさくなったのでやめます。
犯された?
知り合いの多情多恨の女が、自らの性体験を話す時に「◯◯さんとエッチした」ではなく「◯◯さんに犯された」という言い方をする。強姦や強要されたわけではなくふつうのセックスするときのことを語るのに、常にこの語を用いている。念のために言っておくと、ここでいう"多情多恨"とはこれで姓・名なのではなく、情が移ろいやすい性格であるがために各所でたびたび恨みを売ったり買ったりしている女である、くらいの意味で使っている。尾崎紅葉の同名の小説とは関係ない*1。どんなに主体的な誘いかたをしたときのことでも、一瞬で受け身であるかのように変換する見事さ。都合よく使い分けるわけでなく、一貫した用法には惹きつけられちまった。僕は"表記揺れ"が許せないタチなのだ。
おかげで女に影響されやすい僕は、まんまと多情多恨ちゃんの影響を受け、別の女の子と飲むときも、酒の勢いで色恋の話題が煮詰まってきたとき*2に、「なになに?そいつとセックスしちゃったの?」ではなく、「犯された???」ってきいてしまう。まぁ相手を選んで使っているおかげか、この用語が原因で揉め事になったことはないんだけど。不用意に言ったら引かれるよな。しかし僕はちからの強い言葉はついつい使っちゃいたくなるのだ。美しい日本語、なんてバカバカしい。美しい日本語とやらにこだわって選書してる読書家とかも本当にバカバカしいと思っている。表現したいことを表現したい手段で表現している日本語が好きで、どんなに汚い言葉を使っていても、それが実現できている言葉と文章が好きだ。
で、思うにこの言葉は、入れる/入れられるの非対称性が明確な関係だからこそ効果的に使える表現なんだな。セクシャリティの多様性あざやかな昨今、この言葉の向かう先が男のカップル相手だと"どっちが?"のひと手間が挟まるために、一方的な暴力性が薄められてしまう。そんなふうに思うのだ。どうでもいいか。
最後にその言葉の効果についてひとこと付記するならば、あるとき件の多情多恨の女に小さな貸しを作ったことがあったんだけど、多情多恨ちゃんからは「迷惑かけてゴメンね、そのかわり、今日は好きなだけ犯していいよ」と、恐縮しながら言っているようでありつつ、その実、こう言えば大概のことは許される男はチョロいもんだナとこころのなかで笑いながら使っていやがるのだろうなと思いながら、いいよ気にすんなよと犯すことになったのだった。貸しとなった問題のことはそのままうやむやになった。
※この記事はフィクションです
何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ
小説でも評論でもweb記事でもブログでもなんでもいいんですけど、すっげえ面白いものを読むたびに<負けてらんねえなぁ~僕もなんか面白いこと書くぞ~!!>と燃えるのに、夜中仕事が終わっておうちに帰ってごはんを食べると一切の情熱が消え失せて人生の意味がわからなくなり、死んだ方がマシじゃないか?という思考に陥り、もうなにも書けなくなる。基本的に僕には世の中に向かって主張したいことがなく、想像力をはたらかせて物語を作ることもできないから、なにかを書き出すと自然と人の悪口ばかりになってしまうのだ。アーメン、さっさと。
で、今回も嫌いな人間の話が始まるわけです。
SNSやYahoo知恵遅れなんかで「恋人以外の女の子を好きになってしまいました、どうすればいいんでしょう?」みたいな甘えた質問をしてるやつが殺したいくらい嫌いなんです。そんな贅沢な悩みを一生できない非モテ人間も存在するんですよ?不謹慎じゃないですか!こういうのを見るたびに、「どっちでもいいんで余った方の女をくれよ」という回答しか思い浮かばないんだよな。その回答を受けて、「え、イヤだな」という感情が向いたのはどちらの女か。というところから敷衍して生じるのが本当の回答だよ。「他人に犯されたくない方の女を選べ」というのが一般的な回答になる、とうことですね。ゴミめ。
あと嫌いな奴でいうと、「大学辞めてフリーランスで稼ぎます!なにするか考えてないけど!」みたいなご報告ツイートしてるガキも死ぬほど嫌いです。ヘドが出る。黙って勝手にやれやって思うし、お前の人生なんかどうでもいいよ。「応援してます!」ってリプライしてる奴も、「現実を見ろ」と批判リプライしてる奴も、お前の人生のことなんか本当はどうでもいいと思ってるよ。お前が死んでもなんとも思わねえよ。でも、そうやって必死でなんかやったるぞアッピールして"集客"する根性は見習ったほうがいいのかな。……まぁ二度と目にしたくないのでブロックすんだけどね。なんでカラッポのくせにいきがるんだろうね。なんかやり遂げてから「こんなことやりました!」って報告してくれたらいいのに。そうしたら評価できるのに。人生において蹉跌を知らないから、"とりあえず言うだけ言ってみる"みたいな手法になってしまうんだろうか。不思議。
また憂鬱なことを書いてしまいました。ツイッターを見てるとウゼえこと言ってるやつらがワラワラ湧いているのが見えてね、イヤになるんだよ。ツイッターは女の子の自撮りと猫の写真が見られればよい。いっそそれ以外ぜんぶミュートしてやろうか、とすら、たまに思う。
次の記事はもっと楽しいことを書きます。エロい話を書きますね。