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死骸ブログ

大森靖子著『超歌手』を読んで思ったことと、アルバムリリースイベントで目の当たりにした大森靖子ちゃんのスーパーかわいさにたまげた件について

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今年六月に刊行された、"超歌手"の大森靖子ちゃんが自ら名乗る肩書きをタイトルにした『超歌手』を読んだのです。

"エモい"という単語いろいろな細かい感情表現の機微を一言に大雑把にまとめてしまうから使いたくないのだけど、この本の内容については感情大きに揺れうごかされるという意味でたいへんエモーショナルな一冊だったよ。直に言葉を紙面にぶつけて作ったような書きっぷりで、読みながら自然に相槌打ったり口を挟んだり一緒に笑いたくなるような。言葉の勢いはライブに負けず劣らずの力強いだった。音が生まれた瞬間端から消えていく音楽とはまた違った楽しみ方ができるので、少しでも大森靖子が好きならば読んで損はないと思う。

本は一方的に読むだけのものではない、著者の言葉と読者とこころが混ぜ合わさるものだな、という原点のようなものを久しぶりに感じている。読書というのは、著者が一方的に書き表したことを読むだけだから一方通行だな、と思われがちなわけだが、そうではないと思えることはたくさんあると思うよ。自分の中で本の中身を咀嚼吸収することは自分の人生を動かすことだし、読んだ感想を誰か他人と共有すること媒介になるわけだし、まれなことかもしれないけど著者その人と本の内容について言葉を交わす機会だってあり得るのだから。
全編に渡って極端な表現だったり感情的な言葉遣いをしているようだけど、自らの信条にブレないところがあるから説得力あるし、「こういう人なんだな」ってのがストレートに伝わってくるものだった。もちろんこれを読んだからって必ずしも大森靖子のすべてに共感する必要はないけれど、この人から教えられることはたくさん見つかると思う。なにか迷うことかあったりモヤモヤしたことがあったときこんなふうに書き出して考えをまとめていけばいいのかもしれないな。

靖子ちゃんが僕の大好きな椎名林檎についてちょろっと言及しているところがあって、そのフレーズがいまだかつてどのアイコーカも言ったことないんじゃないか?っていうような言葉で、林檎オタクの僕もすごい嬉しかった。それだけでも、林檎オタクのおまいらにも読む価値があると思っているぞ。

なんだか、読みながら人と話したくなってきた。靖子ちゃんと話したい、なんて恐れ多いことは言わないまでも、この本を読んだ人と。僕はこう思ったんだよ、そなたはどう感じたかな?ということを話したい。この本を軸に思いを広げたい。というとなんかクサい言い回しだが、そのような楽しみ方もしたい。そんなふうに思えたのだ。

 

 

こないだ発売されたアルバム『クソカワPARTY』のリリースイベントである特典お渡し会へ行ってきたよ。一路、新宿タワレコへ。
靖子ちゃんと直接話しをするのはこのときが初めてだったのだ。ライブのときはすげえ激しく歌って演奏するのに対して、ふたりで向き合ったときの靖子ちゃんは笑顔キュートでカワイくてカワイいのでスーパーカワイいですね。*1
上のほうで書いた、著作の『超歌手』で靖子ちゃんが林檎ちゃんのことを書いていたところがすごくこころに残っていて、昔からの林檎ちゃんのファンだけどすごく良かった、嬉しかった、と伝えました。本の内容についていろいろ言いたいことはあったけどわずか数十秒のことだし、まずこれを言いたかったんだよ。話したいことを直前に頭のなかでまとめて行ったのだが、いざ目の前にしたらすべてオタク特有の早口でしゃべってしまい、それでも「話をまとめるちからがすごい」という旨の前向きなコメントをいただきました。はいカワイイ!超絶カワイイ!もらった特典ステッカーのうち、吉田豪のほうは使い所がわからない。

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『クソカワPARTY』は銀杏BOYZとのツーマンライブのDVDがついてる版を買ったんだけど、最高によい、死ぬほどよいですね、あのライブ行ったんだけど後ろからしか見られなかったからいまあらためてじっくり見られるのが嬉しい。*2
買って間もないために曲はまだ全部じっくり聴き込めていないけど、ライブで聴いてたときから好きだった「死神」をあらためて聴いたらやっぱ好きだわ、大好きだわ。泣かせにきやがるよ。

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*1:トートロジー

*2:ただし収録されているのはフルではなく靖子ちゃん単体と、靖子ちゃんと峯田がふたりで歌ってる曲のみね、銀杏はいない

【読んだ本メモ】高橋源一郎『文学王』

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"本を紹介する本"をできる限り読まないようにするぞとこころに固く誓っており、なんとなれば、紹介されている本がどんどんほしくなってしまうからというだけの理由なのだけど。むかしひところ谷崎潤一郎の作を祖とする「文章読本」系をいろいろ見つけては読んでいたが、関連本がどんどんほしくなってきますからね。読むのをやめることにした。丸谷才一の文学系エッセイとかも危険ですよ。おもしれえもん、無限に新たな本を読みたくなり買ってしまう。そんな反省から、"本を紹介する本"を読むことはフォビドゥンとした。


のだが、そんな固い固い"禁"を破って先日うっかり入った古本屋でうっかり見つけてうっかり買ってうっかり読んじゃった高橋源一郎の『文学王』はたいへん面白かった。

ライトな文学評論集でソソッと読めるのだけど、文章の書きっぷりが軽妙洒脱で、堅苦しいメージ時代の近代文学なんかも軽く手を出しちゃおうかなって気分になる。

藤井貞和の「書かれなった『清貧譚』試論のために」という詩がひときわ気に入った。これはフィクションです、と前置きしたうえで、津島佑子(太宰治の娘で作家ね)と旅行したときに太宰の作品で何が好きかときかれ『清貧譚』だと答え彼女は涙を流した、というような内容。太宰の思い出がたりとともにふたりの関係性がほのめかされるという構造がとても上手い。あと僕が好きな『右大臣実朝』のタイトルも詩の中に出てきて嬉しくなった。

この詩はすごい良いんだけど、肝心の太宰治の『清貧譚』はどんな話だったかいな、と思って青空文庫を開いてみれば、そうだ読んだことあるぞこれは、趣味で菊を生けている貧乏な男が姉弟に出会う話だ。貧乏男の意地を張るところが笑える。元ネタが収録されている『聊斎志異』は中国の清代の短編小説集で、日本には江戸時代に伝わってそのころから翻案作品がつくられたそうな。

 

もう一冊『文学王』の中で書かれていてこれは間違いなく面白いなと思ったのが、ジュリアン・バーンズの『10 1/2章で書かれた世界の歴史』という小説。世界史をベースにしてすっげー奇想天外な話が繰り広げるような内容だそうだ。第1話が、ノアの方舟の"密航者"が神とノアの悪口言いまくる、ようならしい。これだけで欲しくなり、探すのも億劫そうなのでAmazonでやっちゃいました。マジでAmazonがなければ世の中もうちょい平和だよ。Amazonじゃなくてインターネットがなければ、だ。

 

こんな具合で面白そうな作品をどんどん見つけてきたばかりにワンケー6.5畳の部屋には本が貯まっていく一方なんですけど、つい昨日、部屋の一角で200冊ばかり天高く積み上げており「バベルの塔エリア」と名付けていたところが、神の憎みを蒙り物理法則に従って上から下まですべて崩れ落ちてきました。「あぁ…」とだけ声が出たよ。地震が来たらここ以外も全て壊滅するんだろうね。うちには本棚がないんだ。やれやれ。

そんな災厄に見舞われたとはいえ、古代エジプトではナイル川が氾濫するたびに水の引いたあと肥沃な土地をもたらし稔(もの)りが豊かになっていたそうですし、崩れ落ちた本の下からとうの昔に買ったまま読めていなかった本を発掘して「あ!これ読もう!」って新鮮な気持ちになれるのかもしれません。こういう良い効果も1%くらいの割合で含まれているものと考えられますね。ポジティヴにいこうや。

感想

文化人を気取りたくなって飯田橋の映画館・ギンレイホールの年間パスポートを買って毎週映画を観たり、仕事をほったらかしてライブアイドルの"推し事"に赴きイエッタイガーしたり、ひまさえあれば本を読む生活をずっと続けていますが、果たしてそれで健康で文化的な最高水準の生活を送れているかというと決してそんなことはなく、むしろこれら文化的なものごとのために人間として落ち着いて生きるために必要な金銭と時間をすべて炉にくべて燃やしているため、貯金は目減りする一歩通行、ズタズタに傷んだ人間関係は復旧の兆しなく、精神はすり減って疲労困憊、奈落を這って毎日毎日なんとかやっとこ河を渡って木立をくぐって生きている。いつもどおりゴミみたいな人生を送っている、ということです。

 

以前は割りとマメにやっていた読んだ本の感想をブログなどに書くこともサボっちゃうようになり、ツイッターで書影を上げてひと言ふた言つぶやくにとどまってしまった。ないんだよね、書くこと。いや、なくないけど他人が読んで面白いように膨らませることができないんだよ。元来ものごとの感想を述べることがヘタクソで、小学校のときやらされた作文なんかも死ぬほど苦手だったよ。他人のパクリみたいなことばっか書いていた。何を書けばいいのかわからなかったんだ。今もその気持ちはだいぶ強い。誰かがライブのレポートや本を感想を書いているを読んでもすげえ上手い奴たくさんいるし、僕もそいつと同じようにあるいはそいつ以上に楽しんだはずなのに書けない。そもそも感じ方が悪いのではないか?フィーリング能力が欠如しているのではないか?鈍感なのではないか?といった疑問が沸き起こってくる。小学生当時のジユー作文ならいま思えば文章技術があればやりこなせたのだろうけれども、いまそんなことしたってなんの意味もなくって、自由闊達に思うまま面白いことが書けたらいいんだろうな、面白いこと書けたら他人から興味を持ってもらえるんだろうな、面白いこと書けたらモテるんだろうなって本気で思っている。ものごとに対する感想を述べる能力、コメント力とでもいうのか、これはあったほうがいい。これが足りないから合コンも街コンも相席屋も人生もうまくいかないんだ。ちがいない。

 

というわけで、なにかの感想を書こうと思い立ったときはムリをしてでもなにかひねり出して書こうと思います。日常生活で日本語書かねえもん。書かなければ日本語の描き方を忘れてしまうよな。誰も読まなくて虚空に向かって発信していたとしても構わないや、お釈迦様は読んでくれるかもしれないし。信仰心ないけど、お釈迦様だし。なにかの専門知識があるわけでもなく、"批評"の能力ものないのだから、「感想」しか書けることがないんだよな。せめて人とちょっと違うことを、気の利いたを書けるようになればいいのだ。言語能力が高くなることでおしゃべり能力も向上して合コンも街コンも相席屋も人生も勝利できるって寸法だ。まぁそんなこと言いつつすでにこの記事はブログというWEBツールとしての読みやすさを一切無視しているけれども、お釈迦さまは許してくれるよ。

 

まずは第一ルールとして、なにかの感想を書いたときに140字を超えたらブログにまとめることにしよう、という決意表明でした。いまさら。いちいち誓わないと前に進めない性格なんだよな。

20090709

毎年むかしの恋人の命日に合わせてどこかになにか書くことにしていて、しかしもう九年目にもなると書くことは少なくなってきて、去年なんかはサボっていてポエムみたいなことしか書かなかったのだけど。いまさら書くこと、ないんだよね。ぐだぐだ考えても意味のないことだから、一年一度のおいのりの日にしか考えないことにしている。おいのりっつっても終日しんみりしてるわけでもなく、ちょっと思い出してみるだけだね。意味がないので。

九年経ったいまや、命日を覚えているのは僕を除けば彼女の父母のみじゃないかな。その二人もいま現在どのように生きているかもう知らないし、命日を覚えている人間がこの世にマックスでもたった三人だなんてのはなんだかとても寂しいので、思い出させてやろう、知らしめてやろう、という思いがないわけではない。思い出の大半は消え去っしまった。一緒に遊びに行った場所とか断片的には覚えているのに、どうしてそこへ行ったのか、どんな話をしたのかまったく思い出せない。当時使っていた携帯電話はとっくにぶっ壊れたし、ガラケー時代だったもんで動画なんて撮ってないから声はまったく残っておらず、彼女の面影を伝えるのは手元にある一緒に撮ったプリクラの2シートのみ、これを焼却すればいよいよ亡霊も消え去ってくれるだろうか。亡霊っつってもそれは僕のあたまの中にイメージがあるというだけのことで、あの者は一度たりとも夢まくらに立ってくれない。恨み言も言わなければ、天国の居心地も教えてくれない。死を迎えるとともに僕のことを忘れてしまったのかもしれないし、もしかしたら幽霊なんていないのかもしれないね。

生命はそんなにも大事なものだろうか。ひとは案外、他人の死になんて興味ないんだよ。そりゃそうじゃない?僕だって誰かから「むかしオレ/わたしの恋人が死んでね〜」みたいなことを言われても、「あっそうすか」くらいの反応しかできないよ。興味ねえもん。僕だって人な生き死になんてあまり関心がないですよ。どうしようもないもの。どうしようもないことをどうかしてやろうと考えることが無意味だと知っているからな。

死ぬ前の日に無理してでも会いに行けばよかったのではないかとか、もっと前から向き合って話をしっかり聞いてあげるなどして、逃げ場所を作ってあげたらよかったのではないかとか、若いころは考えたよ。考えた考えた、シミュレーションしましたって。いろいろ考えたけど、それらをうまく叶えても、結局死ぬのがちょっと後回しになっただけだろうなって思うんだよね。まぁ、あんだけ考えたんだから、この人生もう一度やり直せたら次は失敗しないだろうよ。こんなこと考えても一切ムダだけど。とはいえ、付き合ってすぐくらいのころ、恋人がちょっとメンドーなヤツだとバレたときに自分の母親から指摘された言葉が「おまえはヒロイズムに酔っているのではないか、すこし冷静になったほうがよいのではないか」(←「別れろよ」という意味)というものだったんだが、これには抗ってよかったな、とは少しく思っていることがある。書かないけど、僕は十年前からクソ雑魚人間だったが、すこしはあの者のために役立てたことあるんだぞ。まぁ、僕と付き合っていなければ奇跡的に死なずに幸せになっていた可能性もあるので、これもまた考えるだけ無意味だよな。前述のとおり思い出がもう随分褪せてきており、象徴的なものばかりがこころに残っているようなかんじになっているが、こればかりはずっと忘れられないということもあって、早朝のマンション前に止まっていた灯の入っていない救急車、あれは死の象徴だ。早朝と象徴で韻が踏めるね。本当に馬鹿馬鹿しい。

これから半世紀のち、いつか冥府だかあの世だか、地獄だか根の堅洲国だか、そんなようなところで彼女に会ったときにまず言ってやんなければいけないことはだいたい決めている。あとひと月生き延びていたら、好きだったマンガが二作最終回を迎えていたのにな。読まずに死ぬなんて惜しいことをしたよ、おまえ。せめて最終話の感想を語り合ってから死んでほしかった。ってことをあの世で会ったらまず話さなければならない。

葬式のときに、遺骨をダイヤモンドにするサービスみたいなのがあるのだと彼女の父親から教えられ、作ってもよいと言われたので「お願いします」と言ったら、後からほかの遺族の連中がやってきて「やめてくれ」と言われ、僕はどうでもよかったので「わかりました」と答えて沙汰止みになったわけだが、いま思えば、僕より無能だった連中の言うことなどきかなければよかったな?どうかしていたよ。

人の死を身近に感じた経験があるからといって、僕はまわりの人間に対して生命を尊重してやろうなんて気持ちにはまったくなれない。死にたければ勝手に死ねばいいし、止めもしないし、もしも本当に死んでしまったら、彼女が死んだ時と同じように嘆き悲しみ悔やむだろう。それがわかっていても、どうしようもない。僕には死にたがりのみなさんの気持ちや、死んでいったみなさんの気持ちなどわからないからだ。生命の尊さなど考えたこともない。

彼女の父親から、辛くなったら話をきいてもらえるところがあるからと、自死遺族のお話をご親切にもきいてくださるサービスを提供してくれる組織を紹介してもらったが、僕はあたまがよいので、そんなところで話をしても現実世界になにひとつ影響を及ぼさないことはわかっており、いっさい利用しなかった。恋人が死にました、っつって、なんと答える?そっかドンマイ、くらいしか言うことなくないすかね。そんなこと言うやつらはいったい何が楽しくて生きてんだろうな。理解に苦しむよ。ネクロマンサーとか霊媒師、シャーマンやイタコなんかを紹介してくれたほうがまだ興味が持てたことだろう。大川隆法のほうがマシじゃないかとさえ思う。フキンシン、てやつかな。知ったことではない。

亡くなってすぐにパソコンとかアクセサリーのような金目のものは遺族の連中に根こそぎ奪われていったので、せめて書き遺していたものは奪われてなるものかと、手帳やメモの類一式をこっそり持ち帰り見聞した中には漠然とつらいということがちょくちょく書かれていたり、あるいは直接的な言葉で寂しさが埋められないだの、精神の変調だの、入院していたときのおかしなことも色々書かれていたけれど、僕はあたまが良いのでだいたいすべてを理解し、いまも実家に封印している。あれはそろそろ焼却してもいいな、とはずっと思っている。あそこには叶えるべき彼女の言葉のようなものはなにも書かれていないかったので。でも、手帳のカレンダーでデートの約束していた日付けに◯をしていてくれていたのを見るにつけ、なんだか消してしまうのがもったいなくなってしまうのだ。だからまだ燃やせていない。

ひとの死についての感想というと、ほんのひと言が届かなくなる永遠の断絶を感じるということかな。たったひとこと、伝え忘れていた言葉が、目の前にいるのに決して伝わらない。こんなバカバカしいことがあるかよ。まったく意味がわからなかった。寝ているのと同じようなものなのに、目を覚まさない意味がわからない。そんなようなもの。

転勤して地元を離れることになるまでのしばらくのあいだは誕生日とかクリスマスとかにちょっとしたものを買っては祭壇に飾っていたんだが、あんなものもムダだったな。とんだ茶番だった。金のムダだったよ。そんなことして誰が喜ぶわけねーだろって子供でもわかることだが、そのころの僕は本当にそれ以外にやることがなかったんだね。毎週約束していた遊びにいく予定もいっさい反故になり、いざひとりきりになると週末の過ごし方がわからない。なにもやることがなくなった。人並みの趣味とかあればよかったんだが、僕には昔から何かをする情熱も才能もなかったので、打ち込めるものもなかったよ。今みたいにバカみたいに本なんかひとつも読んでいなかったし。なにもしていなかったわけではないけども、なにもかもムダだった気がする。僕には欲しいものもなにもないので、この何もない感覚はずっとずっと続いているね。これは彼女がいようがいまいが関係なく、何事にも価値を見出せないというのは僕の問題なのだろう。まぁどうしようもない。

この世に救いはあったのだろうかと考えてみることもあるが、彼女は小さいころから音楽が好きで楽器の演奏をずっとこころのよりどころにしていたけれど、そんなものは生きている理由にならなかったようなので、信じられるものは無いと言ってよい、と結論した。この世に救いはないです。

あれ以来、冗談でも、生まれ変わったらどうなりたいだの来世はどうなりたいだの、そういうバカみたいな話ができなくなくなってしまったね。時間の無駄だとしか思えない。ねぇよ、そんなもの。霊とか言ってるのんきものを見つける煽られてる気がしてイライラするようになってしまいました。

なんだか辛気臭いことばかり書くことになったが、まぁこの話題を持ち出すのは一年に一度きりだし別にいいでしょう。

健康

あるときからプロフィールに自分の趣味嗜好、好きなものを書かなくなりました。SNSのプロフィールから取り除いたくらいだけどな。好きなものを標榜しておけばそれをきっかけに人と繋がることは容易なんだけど、好きなものを媒介にしただけの繋がりがいやになったのだ。同じものを好きな者同士は連帯すべきだというような言外の強迫観念、「想像の共同体」の縮小版みたいなのがイヤなのだ。もっと大きなところでいうと「日本人ならこうあるべき」みたいなの大嫌いだし。好きなものを語るのに記号的にしか語っていないようなのもイヤ、記号的にしか語っていないバカみたいなものにたっくさんイイネがついているのもイヤ。自分の好きなものに対する好きな気持ちは自分のなかにだけあるのが一番いい。そう思うようになりました。高校生のときに退化したようなかんじだ。

 

しかし好きなものを表に出さないということはコミュニケーションの起点がそのぶんなくなるから、それはもういっそう人と会話ができなくなるね。かつて、(シュミの合う人があればお友達からそれ以上の関係を築ければいいな的な人が集まる)街コン・合コン・相席屋に行ってことごとく惨敗したわけだが、敗因は、僕は「わしはこう思うんじゃ!」という主張を互いにし合いたいと思っていたのに対して、他の者は誰ひとりそのようなことを求めておらずお互いの好きなものだとかを擦り合わせることに終始していた、ということなのだろう。僕は好きなものの擦り合わせなんてしたくなかったよ。おいそれとそんなところで自分はこういうものが好きです、なんて明かしたくない。話のきっかけにされるのがイヤだった。

 

そうして誰とも会話ができなくなり、酒を飲まなくなり、たばこを吸わなくなり、健康になってゆきました。

お死まい

【読んだ本メモ】サイモン・シン『フェルマーの最終定理』(新潮文庫 青木薫訳)

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17世紀に数学者フェルマーによって謎かけのように残された数学の難問を証明した数学者たちの闘いを描いたノンフィクション。

問題が生まれて証明に至るまでの数学史、数学者たちのエピソード、発見・証明されてきた数学の深奥を丁寧に描きつつ読みやすくまとめている。標題のフェルマーの最終定理だけでなく、数学そのものへの興味がいろいろ沸き立ってくる。ページ数が多くてぶ厚いようだけどもミステリー小説を読む感覚で読み進められるもんだから、ページをめくる手が止まらないってヤツだったな。頼んだコーヒーを半分も飲まずに喫茶店の閉店時間まで読みふけっていた。まさか数学がテーマの本がここまで刺さるとは思わなかった。高校の数学ですらさっぱりわかってなかったゴミクズの僕にでもたいへんわかりやすかったです。無理数とか虚数とかいったいなんだったんだよ!!って気持ちをずっと抱いていたが、これを読んだだけであ〜ナルホドねって思えた。まぁ、なんとなくわかった気になっただけかもしれないけど、それでもナルホドと思えたのは読ませるチカラがスゴイのだな、これは。文系とか理系とか垣根なく楽しめる一冊だよ。

【読んだ本メモ】村上龍『希望の国のエクソダス』(文春文庫)

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国としての未来への先行きが不安な日本で、ある事件をきっかけとして突如全国の中学生が集団不登校になる、という話。中学生たちは大人の思いもよらない手段で自分たちなりのベストな社会を作り出していく。取り残された大人たちの視点で読むと、荒唐無稽な作り話だと簡単には笑い飛ばせない。世代間の感覚のズレの描き方が見事で物語の運び方も上手くって、この先どうなるのかのワクワク感が常に高く、どんどん先を読みたくなる。
20年弱前の2000年ごろという時代設定だけど、いま読んでも刺さるところがたくさんあると思う。教育、独立、危機感、希望、生きることへの危機意識、などなど、いろいろな語り口のできるキーワードが散りばめられているので、読書会をしても盛り上がりそう。新しい技術を容易に受け入れる子供たちと、受け入れられず戸惑いいらだつ大人たちの対比が極端に描かれる。子供たち側の感覚も大人側の感覚も、どちらも理解できて感情移入できる。

村上龍の文体、好きなんだよ。「退廃した風景街並み社会の描写と、登場人物の会話のテンポがよいですね。他の作品だとたまに気持ち悪い描写もあって、それが苦手な人も多いとは思うけど。

 

村上龍は「13歳のハローワーク」のなかで、小説家はあらゆる職業のなかで最後に選ぶべきものだ、というようなことを書いていたと思うが、僕はこれを文字通り受け取るべきだとは思っていない。という自説を補強する描写がチラッと出てきたが、これは語るのこっぱずかしいので、あんまりちゃんと書かないでおこう。