アサヒ死ンブン

死骸ブログ

死ね

こんばんは、クズども。絶好のフライト日和です。フライトはフライトでも、爆撃したいね。みんなこんな祟りはミュートしてるのだろうからこっちで書いても同じでしょ。今夜も虚空に向かって祟るね。たまたま誰かの目に留まったときに嫌な気持ちになってくれたらいい、あわよくばそのまま死に果ててほしい。アリさんに向かって話しかけているものと思うことにするね。十年前は誰よりも人の生命を尊んでいたはずなのに、いまはそれが目障りでしかたがない、おまえたちの生命のローソクを道化の大笑とともに吹き消したくてたまらないよ。どうしても幸せそうなみなさんのことがイラついてしかたがないものですから、幸せそうなみんなが死んでほしくてウズウズしています。

 

くそどうでもいい話をします。なにかの行動の是非について述べる際に「それは法律的にアウト/セーフだろ」という物言いが嫌いであるという話をします。なぜ嫌いかと申しますと、法律に抵触しているかどうかが人間の行動を評価する基準になんてなりえないはずなのに、そんなことを考えたこともないであろうその間抜けっぷりがこころの底から気に食わないからであります。法律をないがしろにしているとか法律を無視しろとか言ってるわけではありません。わかっていると思うが、法律についての専門知識の話でもないです。「これってインサイダー取引に該当しますかね?」「それは法律的にアウトですね」とかいう会話のことを言っているわけではありません。「あいつぶち殺したいんだけど」(極端な例)に対して、「それは法律的にアウトだよ」みたいな回答をするボンクラが嫌いだということだ。人間の行動に対する評価はその善性?道徳?よくわかんないけど、そういうものをもって考えるべきであって、そんなもん言われんでもわかっとるわ的な法律的にアウトセーフ判定するだなんてのは考えることを放棄してんだろ。そんな間抜けなことに気づかないのか?と問いたくてたまりません。この世には法律的にアウトであっても断行すべきこと、法律的にアウトでなくても行うべきでないことってたくさんあると思うんだけど、そういうことを考えずに生きているのか?不思議でならない。あともうひとつ屁理屈いうと、"法律的にアウト"なのであれば、「では、いかに法律をかいくぐるか」を考える不道徳(笑)な方向に向かうと思うんだが。というわけで法律的にアウトセーフヨヨイノヨイみたいなこと言わないでね。言われたらクソ屁理屈言っちゃうと思うよ。法律とか関係なく嫌いなやつら全員死なねえかな~~~~~~~~~~~~~~

死ね

「これから毎日、作文をします」と昨日の夜、神に誓ったわけだが、書くべきことは何もないです。僕は世の中に主張したいことなどないのだ。なにひとつこの世の中に期待していないがゆえに。世の中のひとたちはみんな、よくそんなにも、自分自身のこと以外に熱心になれるよね?たとえば土俵とかセクハラの話が嫌でもツイッターで流れてくるのを見ていたのだけども。そりゃ自分が当事者になったらブチ切れて暴れるだろうが、そうでもないのによくそんなくだらないことで大騒ぎできるな。よく他人のことに関心を持てるものだと思うよ。感心するね。不思議。すごい。すごい、すごーい。僕は今までろくにひとから助けられた覚えがないので、誰のことも助けてあげませ〜〜〜ん。関係者が全員死ねば問題は立ち消えるのでは?としか思えない。死ね。本当はもっと楽しいことを書きたいんだけど、ないです。一切ない。虚空。何か書こうと思うと、世の中への憎しみしか思い浮かばない。ヨケーなオセワが嫌いなんだな。大嫌いだ。喫煙者は死ね、みたいなのもヨケーなオセワの極みで、お前が死ねって感じ。ヨケーなオセワさん、お前の好きなものもあげてみろよ、教えろよ、そのクソつまらねえもの、貶してやるよ。お互いの嫌いなものが相消えれば幸せかな?満足かな?僕はヨケーなオセワなお前に消えてほしいですが。そんな風に、イライラすることばかりです。森羅万象が憎い。無理。

死ね

なにかしら突出した才能やひとを惹きつける魅力、そういったものを持ち合わせぬ無能無才の凡俗なる人間は、"政治"ができねば六情の渦巻く人の世で生きてゆけません。ここでいう"政治"とは、蜘蛛の巣のごとき人間関係を上手く張り巡らせる能力、あるいはその蜘蛛の巣の上を踏み外さずトコトコ歩き渡る技術、そういったことを指します。そのような"政治"思想のもとで、僕は長年まぁなんとかやってきたと思います。しかし、政治力を行使することは神経をすり減らすのであります。好きなものを好きだと言うだけで生きられればよかったんだが、それだけでは巣を張るための糸が足りないために、対して好きでもないものまで受け入れたり、果ては嫌いなものまで渋々認めねばならないのです。嫌いなものを認めるにはどうすればいいか。ことあるごとにそいつの悪口を言ってオシマイにできるならばよかった。たとえば悪口を言い合える"党派"があればよかった。僕にはそんな徒党を組む努力ができなくてですね、よくあるイジメの「あいつムカつかね?ハブらね?」などと誘うような、いわゆる"オルグする"ことができないのです。まわりみんな良い人ばかりでね、僕の気に入らないモノに対する気に入らない気持ちを理解してくれない。それはそうだよな。みんなが正しいです。それに、僕はそんなウジムシのような陰口を叩くやり方でなく、嫌いなものは古典の軍記物語のように正面から討ち滅ぼしたかった。が、まぁそんな時代錯誤なことは叶わない。嫌いなものを我慢しすぎて僕はダメになり、国連で席を立った松岡洋右のごとく退出して、"政治"をすることをやめてしまいました。ひとりでいることは死ぬほどつまらないけれど、気持ちはとてもとても楽です。

【読んだ本メモ】上野千鶴子『差異の政治学』(岩波現代文庫)

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性差・人種をはじめ、あらゆる非対称な権力関係から生まれる差別についての論文を収録している。セクシャリティは自然か、ゲイとフェミニズムは共闘できるか、旧優生保護法・中絶の権利をめぐる議論など、多彩な視点のものが収録されているのだけど、堅苦しい論文形式のもので、ひとむかしふたむかし前のものばかりなので、内容がわかりにくものも多かった。とはいえ、この時代にこういうことが問題とされていたのだなと知ることは大きな意義があったように思う。比較的読みやすい「<わたし>のメタ社会学」も収録されている。文学と社会学のアプローチの仕方を比べながら、著者が社会学を行うことの意義を語っている。

 

以下はテキトーなメモ走り書き
・生物学的に決定されている性差をセックス、社会的文化的な学習によって獲得される性差をジェンダーと一般には定義されているが、ジェンダーという概念がどのように定式化されていったか。セックスとジェンダーが別のものだと明らかにされたこと、ジェンダーは自由に変えられるものでなく拘束力が強いものであること。

・「欠性対立」二項対立のうち頂の一方だけが有徴化されること。「非行少年」の反対語が「善行少年」ではなく、「(非行少年でない)ふつうの少年」と言うほかない。「ふつう」とは、その特性を定義することができないような頂のこと。

セクシュアリティが近代の所産であること。余談として「天皇制」が日本近代の政治体制を批判的に呼ぶ用語だったのが、さも由緒ある歴史を持つ概念であるかのような誤認になっている。

・当事者が「誰にも見せたことのない私」を自己なのだみなす傾向がある。身体を通じて個人を管理する権力の技術をフーコーは「生権力」と呼んだ。近代以降、「真理」は「公的領域」から隠されたことがらと同義になり、人々は秘匿された「自己の真実」を「告白」しはじめる。「われわれ」から「わたくし」というものが分離し、「われわれ」に還元がたいものだけを、人々は「個性」や「人格」とみなすようになる。人々が「真の自己」とみなすのは、当事者が「他の誰も知らない私」「誰にも見せたことのない私」と考える自己のこと。

この辺は読んでいてうっすら考えたことだが、個性とは足し算すべき大切なものなの?総体から一般的なものを引き算して残ったものなのか?という方向性の違いがあると思う。引き算的な捉え方の場合、残ったものでポジティブな評価であれば個性と呼び、ネガティブな評価であれば「それはオカシイ」ということになるのだろう。個性を尊重しろとほざくガキは個性そのものの捉え方を考えてみたほうがよいのではないか?おまえが個性だと言っているものが認められるかどうか、たまたま自分の趣味嗜好が世の中の大多数と迎合するかどうかに左右されてるってことなだけなんだな。

・「教養」や「オリジナリティ」に神秘的な意味を与える必要はない。「すでに知られていること」が何かを知ること。それと自分の考えていることがどう違うかを文節する能力をもつこと。「異見」はそのようにして創られる。

 

おしまい。

【読んだ本メモ】大澤めぐみ『6番線に春は来る。そして今日、君はいなくなる。』(角川スニーカー文庫)

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プロローグ・エピローグに挟まれて、四人の高校生男女の視点が切り替わってひとつの物語が構成されるライトな青春モノノベルだが、登場人物の視点の切り替えからのギャップの生み方が上手く面白い。著者の文体の特徴なのだろうけれど、文語調の言葉が織り混ざるのが個人的には好きなところだ。口語と文語が混ざった違和感がありそうなところだけど、全体として統一感があるのでヘンテコにはなっていないような。細かい言葉なんぞ気にせずとも物語の展開がすらすら進むので読みづらいことはなかった。青春したいな?拙者はしたいぞ?という気持ちになっていく。

それぞれの視点が切り替わることでギャップを生むという上手さでいうと京極夏彦の小説でもそういうの多用されているね。最初の登場人物の一人語りが、あとから別の人物の話を総合するとまったく違った内容として覆される。芥川龍之介の「藪の中」とかもそうだよね。

死ね

わからない。僕よりつまらないツイートしてるやつらが何万RT何万イイネとかされてんの見ると本当に意味がわかりませんよね。まぁそんなことはどうでよいです。ちょっとムカついてるだけなんで。嫌いなタイプのツイートが回ってきたのでこころが荒れているということですね。あの、なんていうんですか、ガキの理科のテストの回答を巡る是非の論争っていうですかね。たまに起こるやつ。なんだっけ、もう一生存在すら目につかないようにするためブロックしたから細かいことは覚えておらずわからないんだけど、「夏が何故暑いのか答えよ」みたいな問いに対して「地軸が何度傾いてるから」みたいな回答をして、それを評価してくれた先生エライ、イイハナシダナーみたいなやつだったかな?それに類する話、ちょくちょくあるじゃない。手を変え品を変え。あの手の話、大嫌いでね。何の説明にもなってなくない?バカじゃねえの。みんなツイート作文大賞でも競ってんのかな。だったらそういうタグつけてやってくださいませんか。そういう国語のお題なんだったらまだ理解できるわ。そうでないならみんな死んでくださいませんかね。本当に嫌いでたまらない。それらの論争笑笑笑がダメなわけではなく、僕がもうダメで、なにもかもダメ。人のツイートを見ていて日本語表現のやりかたが嫌いなやつはみんなブロックかミュートして、めんどくさいからブロックブロックブロック、消えろ、死ね、とつぶやきながらブロック。文章の巧拙じゃない。たとえば長文を労して何も言ってないようなものは嫌いだからブロック。多少言葉づかいを間違っていても伝えたいことがわかるものは読む。わからないものは読まない。人になにか伝えたいという気持ちがわかる文章が好き、そうでないものは嫌い。大雑把にいうとそういうところか。まぁ厳密なとこではないけど。なお、このクソ記事は人に丁寧に伝えようって気持ちなんてないから、僕は人のこと偉そうにいえませ〜ん。いいんだよ、どうせ誰も読んでいないのだろうし、読まれようが読まれまいがどうでもいい。本当にもうだめでね、なにもわからなくてだめ。人生楽しみた〜い!って思い込みたいけど、ムリ。ムリ。前半に書いたような嫌いなものが目に入ると、もうこころから死んでほしいとしか思えなくなるから、こんな邪悪なこころでは人間世界で生きてゆけないよな。わかっているよ。諦めている。おんなじようなこと何度も書くけど、それはずっとずっと同じことを変わらず思っているということのであり、そう簡単に変わりゃしないね。好きなものとかないんだよ。好きなバンドでもアイドルでも本でもいい、あるよ、好きな人とかもたまにはできるよ、いたよ、でもそんなもん全部むだじゃないすかね?なにひとつ手に入らない、そんなものを追いかけてなんの意味があるのか?意味なくない?そんな気持ちが拭えず、愛せない。現実を歪めるほど好きになり愛してみたいがなにひとつそこまで至らない。すべて現実の前に折れてしまう。あと大嫌いなものもひとつ書いとくと、美しい日本語が好きですとか言ってる者がこころから嫌い。美しい日本語ってなーに?みやびな言葉づかいのことやろかぁ?美しい日本語表現とやらを使ってわかりやすく説明してくれや〜って煽りたくて煽りたくてたまらない。大嫌いだ。おまえのくだらないこだわりなど世の中の誰ひとり求めていない。まぁゴミクズみたいな僕の存在も求められていないんで、おアイコだね。死ねよ。おまえが死ぬのを見届けまで僕は死なないけれども。本当にもうなにもかもがイヤで嫌いでたまらないんだよね。そういう病なんすかね?わからね〜、嫌いなものが多すぎて人生ムリ

死ね

クソどうでもいいことを書きます。
「しょせん人生なんてヒマつぶしだ」という言説がまったく理解できない、ということを書きます。深い意味をもってこの表現を使っている人って見たことがないので、おそらく、おそらくは「人生は諸行無常だよな」というくらいの軽い意味で使っているのだろうけれども、もしもそうでないならば、「ヒマつぶし」という言葉を本来使うときのことを考えたらおかしくないすかね。ヒマつぶしって、そう遠くない未来のある一点までの余暇をテキトーなことして過ごすっていうことであって、ある一点を迎えた以降はなにかしらやるべきことがあるってことを前提していると思うんだけど。人生がヒマつぶしだとおっしゃる人はその一点をどこに設定しているんだ?文意そのまま受け取ると、人生終わるときがヒマつぶしの到達点ですよね?死んでからおまえはなにをするつもりなんだ?ヒマつぶしが終わってからやることがないならば、ヒマつぶしという言葉の選択は誤っているぞ?到達点から先の未来をどう考えているのか、わからない。ゆえに「人生はヒマつぶし」だと言う人間の心意がわからない。もしかして僕とはまったく違う時間軸の世界が見えているのか?そう思うと恐ろしくなってくる。「人生は"ひつまぶし"だ」と言われたほうがまだわかる。なんか味わい深い人生なんだろうなァ、と曖昧ながら解釈できるから。こんな細かいことが気になってしまうタチだから、僕は人生が上手くいかないのだろう。神経質すぎるだろうか?神経質でもゴミムシでもなんでもいいですよ、もう。生きていたくないです。あぁ、こういう消化試合のような感じを表すときに使っているのかな。すこしわかった気がしました。

 

※このクソ記事は、人生のヒマつぶしのために書かれました