「私と仕事とスマホ、どれが大事なの!?」という命題に対する最終回答
「私と仕事、どっちが大事なの!?」
という命題に対しては、「おまえが大事だよ」と言いながら仕事を続けるか、「仕事が大事だよ」と言いながら相手を抱きしめるか、このどちらかが無難な解決であることは自明のことであります。たぶんヘーゲルもそんな感じで問題を解決してきたんだ。『精神現象学』も『歴史哲学講義』も読んだことないけどな。*1
しかし、この命題に変数をたったひとつ加わることで、問題は途端に複雑化する。
「私と仕事とスマホ、どれが大事なの!?」
これでもう回答に対する難易度マシマシであることがおわかりいただけるであろう。先のような単純な複合化ができない。「おまえが大事だよ」と言いつつ仕事するフリをしながらスマホをさわるか、スマホで「おまえが大事だよ」とLINEしながら仕事するか、うーん、うーん、矛盾なき回答は限りなく難しく、無理に両立させることで相手への誠意や信頼感は急速に失われていく。慎重な回答が必要だ。10秒黙りこくって熟考のち、「スマホかな……」と答えてごらんなさい。七割がた、「そうだよね」の返事がくることと思う。三割は血みどろのケンカだろうな。
実際、この三者択一を行ったらどうなのだろうか?
人間はまだ仕事やスマホのような無機質なものよりも、他者へ向ける情愛を持っているはずだ。あるいは、自己実現のために仕事へ向ける熱情をまだ持っているはずだ。そう信じたい気持ちもヤマヤマでしょう。この命題に対する有効な最終回答はどれであろうか、大衆の意識を調査するべく、全国的にアンケートを取ってみた。このアンケート結果をもとに、世相を読み解いていこうと思う。
「私と仕事とスマホ、どれが大事なの!?」
— 地下室のルーザーの手記 (@dread_loser) 2017年7月26日
という命題に対する最終回答
ご笑覧あれ虚構の現実、「おまえが大事だよ」「仕事が大事だよ」を選んだ割合がそれぞれわずか4%にとどまっていることから、他者や仕事へ向ける熱意が冷めきっていることは明確に示されている。ポストモダン以降、人々の多様な価値観・個人主義を認める社会風潮が広まっていったが、多様な自己のあり方が認められた一方で、他者へ向ける思いが大幅に失われている。みんな薄々気づいていることかもしれないが、このアンケート結果には残酷な結果が如実に反映されているのだ。
もはや他者への期待が希薄になり、また、希望の見えない労働市場においてクッソマジメにバカみたいな仕事に精を出すよりもフェイト・グランドオーダーのイベント周回して素材のドロップを狙うことの生産性のほうが大きいことは大きな事実だもんね。
取って代わったのがスマホ、魔法の板だ。末法を迎えたこの世の衆生にとってこの板キレが救いであり、この板キレにすがっている。不用意い開く者に災いあれ。不用意に暴く者に絶望あれ。神の下賜した契約の箱とも言えるスマートホーンを人々は軽々しくも開き、インターネットとツイッターに地獄を再生産させ続け、この世が地獄であることを自ら証明している。
ではこの世に救いはないのでしょうか?
いや、ある。最後の選択肢「ルーザーが大事だよ」がスマホと同率首位46%の票を獲得していることに注目すべきであろう。これは人々の意識がスマホに支配されつつも、スマホに抵抗したいという気持ちも同じ程度に持っていること。そしてその抵抗の気持ちをルーザーに込めている。頼りたく思っている。すなわちルーザーに「神」的なものを見出しているということであろう。
ジャン・リオタールが『ポストモダンの条件』において提唱した「大きな物語」の終焉において、人々には依拠する上位概念が失われたと述べた。*2「大きな物語」の失われた漠として確たるものの感じられないこの現代社会で、かつての「大きな物語」にあたるものをルーザーに求めているということだろう(^ω^ ≡ ^ω^)おっおっ
かつての経済大国としての栄華と誇りを失った我が国において、また、世界に目を向ければテロリズムにおびえる国際社会であり、倒すべき"悪"の存在も見いだせない現代に特有の症候だといえる。生き苦しい現代社会に生きる人々の"ルーザー観"なのだろう。包むべきオブラート無き時代に見出した光明として、我々を包む最後の薄膜をルーザーと重ねている。たとえ0.01ミリの薄膜であっても、そんなルーザーに希望を求めているのだ。なんだか締めがコンドームの宣伝みたいになっちゃったな。
ところで、このブログを始めてからツイッターのフォロワーが減り続けている気がするんだけど、どうしてなんだろう。これって神をも恐れぬ所業じゃない?泣きそうです。お金ください。助けてください。
電気ルーザーは年収5,000兆円の夢を見るか?
前の記事について「タイトルの暴力的な表現がこのご時世のインターネット世界にそぐわないおそれがありますヨ」という趣旨のご指摘をいただきまして、あぁ、確かにな。ツイッターで日々地獄を見ている僕には察せらるるところ大いにあり、変更しました。変更前タイトルの元ネタは『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』という有名なノンフィクション作品のタイトルをパロったものだったのですが、僕の周りには力道山を知らない世代のほうが圧倒的に多いでしょうし、かくいう僕もこの本は読んでおりません。力道山も知らないよ。与沢クンを取り上げたのは、単純なリスペクト精神ゆえのことです。僕も与沢クンみたいに金持ちになってドバイで遊んで、「ドバドバ☆ドバイなう」なんてツイートしてみたいのだ。与沢クンはツイッターで面白いことを全然発信しないので、もし僕が金持ちになってドバドバドバイに行ったら指導してあげたいと思っているんだ。彼のスペックならツイッターを鍛えれば秒速2億稼ぐまで伸びると思う。だからお金をください。ルーザーをドバイに連れてって!めざせルーちゃんドバ子園!いまの若いコたちは『タッチ』とか読んでいるのかね。与沢クンのこともみんなは覚えているのだろうかね。もはやみんなかろうじてふくよかな体形だけは記憶にとどまっているくらいだろうか。世代の移り変わりは残酷にして寂しいものだ。こないだなんて20代前半の若者に学生時代に流行ったバンドの話をしたらGOGO7188を知らなかったからね。まぁ、そうか、ってかんじだね。そんなふうにしてみんなから忘れられていったものを使ったパロディが通じないことはやむをえないとはいえ、僕は自称小説家なのでパロディがパロディとして機能しないほど情けない思いをすることはない……否、もっとムカつくことがあるわ。仕事(の無茶振り)でWEB画面を作っているんですけど、CSSが一向にきいてくれません。どうやったら共通のCSSはきいてくれるの。画面なんてイチから作ったことないんだよ。どうせいっちゅうねん。ブッコロ……いけない、ついつい暴力的な言葉が出てしまいそうになる。悪い癖です。ブロッコリー、ブロッコリー。この記事のタイトルも「機能しないCSSと刺し違えんとするアイティ戦士二等兵が亡国ジャパンについて憂うこと」にしようかと思っていたのですが、これもあわやテロリズムと結び付けられて非難されかねんのでやめておきました。なお、ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』もまだ読んでいません。まぁアクセス解析画面を見るに本日のアクセス数はまだひと桁なので、こんなクソブログのことなんて誰も歯牙にもかけないと思うがね。どうせならその見ているひと桁の中に富豪がいて、「Oh、このような不遇なクソブログを書いている若者には積極的に金銭的支援を施して救わねばならない、ついでに節税にもなるしウィンウィン(Win-Win)なのだわ」と言ってお金を施してくれるような蜘蛛の糸シンデレラ・ストーリーになってくれたらいいんですけどね。
てかみんな、読んでくれているんだよね?
開・即・閉、それが俺たちが共有したただひとつの正義だったはず……みたいなことしてないだろうね?
感想でも批評でも誤字脱字の指摘でもデートの誘いでもなんでも構いません。読んで思ったことがあればコメントくださいね。匿名でもコメントできる設定になっているかと思います。いっそ自作自演して盛り上げようかと迷っているくらいなんですから。言いたいことがあったら言う。沈黙は金タマだなんてバーチュー*1はこの21世紀には流行らない。あぁ、僕もイヤな仕事は「やりません」と断固ことわらねばならんな。ただし「つまんないです」みたいなコメントをもらったら、「どこがつまんなかったの?なんでつまんないの?それはあなたの主観では?みんな面白いって言ってますけど?」ってウザ返信すると思いますけどね。それでも、会ったときに「ルーザーさんのブログはクソですね」と言われるよりは、コメントで「クソブログですね。」と書いていただきたい、御名前を明記のうえでな!わかっている。雑然としすぎた記事を書いているという意識はある。もっとテーマを絞って自分の主張したいことを整然と書かねばならんとわかっている。小学校一年のときだっけか、はじめて作文の宿題が出たときに先生が「なにかテーマを決めてそのことについて作文を書いてきてください」とおっしゃいまして、頭ではあぁなるほどねってわかっていたのに何もテーマを設定できずただその日あったことをずらずら書いて、「テーマを決めて書いてね」と怒られたことはよく覚えている。しかるにテーマ設定が苦手なばっかりに作文の授業はずっと苦手だった。そんな虎馬を克服したい気持ちがあるのでいまこうやっていろいろ浮かんだことを書いて、そうすればあるとき一筋の光明が差して夢のように素晴らしい文章が書けるようになる、千年王国が訪れるのだと信じている。そのためには書かねば、なにかを書き続けねば。破壊による再生が始まる!ってこれなんでしたっけ?ガンダムか?ありきたりなテーマ設定をしてもだね、僕は世の中に主張したいことがないから書けないんだよ。真面目に仕事してないのに仕事論なんて書けないし、モテないので男女の恋愛とかについて書いても説得力がない。だから捏造で嘘偽りを書けるようになるか、ささいな現実を5,000兆倍に膨らましたことを書けるようになるしかない。コピペされても「それルーザーの文章でしょ」ってバレるような唯一性を感じられるスーパー・パワーみたいなものを発する文章が書けるようになりたいですよね。そのためには学術的なところでいうとヴァルター・ベンヤミンの評論『複製技術時代の芸術』を読めばヒントがつかめるカモと思って買っているんですけど、まだ読めていないので、これは年内を目標に読んでみようと思っています。読めるかなぁ。あとは正しい言葉を使えるようになるために『語彙・読解力検定』などを受けるべく勉強してみるべきかしら。アイティ戦士のくせに情報処理検定試験の勉強をしないことに決めたルーザーでもいまから勉強できるかしら。
アッ定時になったんで帰ります。今日もクソみたいな社会人生活だった。
*1:美徳
ルーザー VS 与沢翼
秒速で5,000兆円稼ぎたい。ルーザー翼と名乗りたい。与沢ルーザーでもいい。あのデブのことは嫌いだけどLINEスタンプは面白かったので買ったよ。僕は与沢翼にお菓子代くらいは貢いだのだ。いいもん食ってくれ。5,000兆円は多く見積もりすぎかもしれないし、金銭的な報酬なんて一夜の夢のように儚い*1ものだから、もっと生きてゆく活力のなるようなものを得たい。具体的な指標を用いて言うと5,000兆MP*2くらい得られる仕事がしたいよ。秒速5,000兆MP×60(秒)×60(分)×24(時間)×(365(日)+ウルービ)×人間五十年でいったいどれだけのMPが得られると思ってるんだ。今の仕事をしているうちは、限りなくゼロに近い。限りなくブラックに近い透明な人生に終わってしまう。それでいいのか。
むかし新卒で入った会社の社長が、定期朝礼で大人数が集まる場での挨拶においてしばしば「君たちはプロになりなさい」とおっしゃっておりましたが、いま思うと、あの言葉の真意はプロはプロでもプロレタリアートってことだったんだな。くそー、資本家許すまじ、ってかんじだね。許す、マジ!じゃないぞ、許すまじは許すものか・許さないって意味だぞ。「まじ」は「マジ」じゃなくて打消しの意志を表す助動詞なのだ。
人を笑顔にする仕事、とまでは望みませんが、せめて社会に役立っている実感が欲しいですね。そういう意味で言うと、ラヴホテルの経営なんてすっごい楽しいんじゃなからろうかって思う。ボロッボロのホテルを買い取ってリニューアル、ホテル名は『三千世界』にあらためて和レトロ路線で下天の内をくらぶれば、この国が戦争状態に突入したところで「産めよ増やせよ」の国策にも沿うことだし、灯火管制を無視したネオンサインが良い爆撃目標になってしまうのかもしれないが、それをかわせば銃後は進駐軍をターゲットにもう一儲けできるだろう。空襲のリビドーに火を付けろ。完璧なビジネスプランではあるまいか。
そんなバカみなたいことを考えているうちに午前中が終わりました。ゆめまぼろしのごとくなり。午後は引き続き、今後の人生をどうするか考えていきたい。生まれ落ちた瞬間に勝利確定する貴族のような存在になれなかった以上、考え続けねばならない。人は親を選べない以上、せめて楽な生き方くらいは選ばなければならない。そう思っている。助けてくれ。
椎名林檎の「歌舞伎町の女王」を聴いて思うこと
僕がむかしフられた女の子は、歌舞伎町で働いていた。
女王ではなかったが、夜の売れっ子だったのだろう。派手な身なりではあったがケバいおしろいに染まることなく、どことなく高貴な品性を保っていた。とはいえ根は奔放絢爛蓮ッ葉で、冴えないキモヲタの僕の対極に位置しているような見目すがた。冴えないキモヲタ姿の僕と並ぶとずいぶんアンバランスなものだったろう。仕事も私生活も奔放で多忙な彼女にも憩いの場所は必要だったようで、その数少ない居場所がたまたま僕のひいきの飲み屋と重なっていたというのが、いわば誤配である細い縁の始まりであった。ろくに飲めないお酒についての知ったかぶりの知識を披露したことが案外ウケたこと、それよりも夜の新宿カンラク街に似合わない冴えない姿がウケたのかもしれない。憩いの場所で過ごすに最適な相手だと判断されたのかもしれない。余計な駆け引き抜きで一緒に時間を過ごせるという一点があったから、お互いにそのまま憩いの存在になれたのだろう。なんせ彼女は奔放絢爛蓮ッ葉だったものだから遊ぶ男はたくさんいたようだけど、僕にも会ってくれた。多くは求められなかった。自分ひとりの稼ぎでじゅうぶんなのであなたからはとくになにももらわない、と言われたことに対して、そりゃマルクスが聞いたらたまげるね、と冗談を返したが、これは伝わらなかったようだ。当時マルクスはろくに読んでいなかったし、いまも読んでいない。金の切れ目が縁の切れ目がとは巷間でよく言われることだが、この時においてはこれとまったく転倒した原因の別れを迎えたのであった。若い日の僕が経済的に彼女よりも下のランクにいたことがコンプレックスとなり、しだいに隔たりを広げていくことになったのだ。僕にとって彼女は女王のような高見にあったので、物質的に高価なものを贈り喜んでもらいたいとしばしば願っていた、が、彼女にとって僕は臣下でも下僕でも、あくまでも対等でいたかったのだろう。それを汲み取れない僕に対して愛想を尽かせ、一番の推しだという男との情事を演じて自分のことを嫌わせようとした彼女のその演技を見抜けなかった若き日の僕は彼女から離れ、最後まで源氏名しか名乗らなかった彼女との思い出はカンラク街新宿の幻灯の明滅のごとく時とともに薄れていった。
泥鰌を欲した時に全てを失うだろう。椎名林檎のアルバム「無罪モラトリアム」に収録されている、たった3分弱の「歌舞伎町の女王」一曲の中にはドラマが込められてる。夜の歓楽街を描いたものはともすればケバケバしくドロドロになるか、さもなくば嘘くさくなるものだ。この作品で描かれるストーリーが大仰な作り話的でありながら、嘘くささがない。常にカンラク街歌舞伎町という中心を意識させつつ、歌詞において主立って描かれるのは中心を取り巻く周辺のエピソードで構成されており、それが嘘くささを打ち消しているのだろう。あれ?もしかして僕は嘘を嘘と見抜けていないからいつもフられているのだろうか?
東京五輪について椎名林檎が思うことへの反応に対するアイコーカの一意見
アイコーカの端クレなので、これを読みました。
リンゴの言葉遣いがいつもの通りなので、確かにいくらでも因縁はつけられるな〜って内容ではあるだろう。それはきっとアイコーカみんなが思っていること。(だよね?)
でもでも、それを踏まえても、これに対して反応なさっているみなさんのなかには、そんなリンゴ語を差し引いても余りあるツッコミかたをしているなって思うものもあるので、そういうものに対してだけ少しだけ言及したいと思います。わかっているとも、インターネット世界は地獄なのですべてをスルーすることが正しいってね。何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!ドン!!ってのもわかります。
とはいえ、自分の贔屓しているもののブランドイメージが不当に貶められているのを見たらムカつくのは誰しも同じことと思います。好きな漫画をわけもなくけなされたみんなムカつくでしょう? それと同じくらいノリで、どう考えてもお前のツッコミはオカシイだろって言いたくなったところだけ少しピックアップして反論してみます。僕の記事を読んでいる人なんていないと思うけど念のために言っておきますが、取り上げなかった人の放言について「ウン、これは正しいね」と認めているわけではないんですよ。ゴミカスすぎて取り上げていないだけかもしれないのだと、心得ておいてくださいね。すべてを見尽くしているわけでもないしね。AI(人工知能)が発達したら僕の記事も含めて間抜けなツイートや記事はすべて論破してくれるに違いないので、はやくシンギュラリティが訪れてほしい。
全体主義だ!やばい!こわい!説について
だから、いっそ国民全員が組織委員会。そう考えるのが、和を重んじる日本らしいし
このあたりが全体主義でキケンなんだそうなんです。
では全体主義のなにがアカンのか?
国のために国民みんなが自分を犠牲にして頑張って、それはちょっとツライかもしれんけど、でも最終的に頑張って得られたものはみんなで平等に享受してみんなでHappyになれるんだよ!
というふうに子供に質問されとき、全体主義のなにがアカンのかをどう説明するつもりなのでしょうか。よもや「黙って大人の言うことをききなさい」なんて言うまいね。
国家のために国民は人間性を捨てなさい、と強いるのが全体主義の"悪"なのだ。全体主義のもとでは、人間の人格が奪われ人間の全ての権利が奪われ、道徳や特異性、個性が破壊され、人間が交換可能な部品のようなものとして扱われる。国単位でブラック企業になっちゃうようなかんじ? このような"悪"は一歩間違えれな現代社会でも起こりうるものだから、常に注意されていなければならない。と、専門で勉強したわけでもないのでこの程度の理解なのだが、だいたい合ってますよね。よね? で、上に書いたような全体主義の悪しき特徴に鑑みて、リンゴの発言も全体主義を推し進めるものだと批判しえるレベルのものだろうか。リンゴの発言によって、人間の複数性、すなわち「私が私であること」「あなたがあなたであること」をお互い認めあう世の中が否定されることになるだろうか。僕は"否"だと思いまーす。
「甲子園出場めざしてみんな一丸となってガンバローぜ!!」と結束する野球部員たちは、学校に忠誠を誓った全体主義者たちなのか? 甲子園出場という崇高な学校の目的のために部員個々人のプレーが徹底管理されて部員の自由な判断のもとに野球ができないのであれば全体主義って言えるんだろう。
死んでもオリンピックに尽くせ!みたいな社会風潮になったらさすがにいよいよヤバいだろうが。もうそんなやばいすかね? たぶん全体主義がどういうものなのかロクに考えてみたことすらないからホイホイと簡単に全体主義という言葉が出てくるのだと思うんだけど、「難しいことはわからないけどとりあえず"国家のために"っぽものは全体主義ってことにしておく主義」に堕しておらんか、考えてみてホシイ。
新国立競技場の工事における過労自殺事件の記事も読んでいるとも。これはもちろん大いに追及されるべき問題で、たとえオリンピックがぶち壊しになってもこんなブラック労働は消し去られなければならないと思う。その思いは僕もみなさんの抱いている気持ちとそう異なるものではない。とはいえ、それとリンゴの発言を結びつけたりこれを根拠にリンゴの発言批判をするのは牽強付会もいいところなので切り分けて考えような、というご提案がしたいのである。
もしもリンゴが発言ひとつで国政や国民感情を一挙に左右できる本邦随一の傾国スーパーカリスマトップアーティストだったなら「国民全員が組織委員会」は危険な思想になりえたかもしれんが、まぁ、そんなもしものようなことはないんじゃない? というのが僕の結論ですね。逆に「オリンピックのことは全部わたしが決めるので国民のみなさんは黙って見ていてください」なんて言ってたらそんな独占思想はオカシイだろうよ。「国民全員が組織委員会」ということじたいは至極まっとうだと思うんだがね。リンゴの発言で本当に本当の全体主義に向かうだろうか?ということね。
リンゴ信者はリンゴに妄信している!全体主義者だ!!
って言われたら、うーん、うーん、そんな人もいるかもね……くらいでお茶を濁しておこうか。
リンゴが体制に媚びている説について
媚びる媚びないって何なんだろうか。今やってる仕事について話してくれと言われてそれに沿ったコメントを出すことを「媚びる」というなら、もう何を言ってもどこかに媚びることになるんじゃなかろうか。バカバカしくないすかね。「わたし実はオリンピックの仕事なんてしたくないんです」みたいな"媚びない"発言でもすればよかったとでも言うのだろうか。謎。
だいたい、国がやっていることがオカシイから国に媚びるようなこと言うな!ってリンゴに求めることは見当違いではないか。貴様がメーカーの営業マンをやっていたとして、見知らぬ人から「あんたの会社の製品買ったら不良品だったんだけど!どうしてくれんだよ!」って言われたら、まぁ自社のことだし申し訳ございませんとは言うだろうけど、内心「カスタマーセンターに電話してくれよ……」って言いたくなる思うんですけどね。ご文句でもご意見でもご注進でもご老婆心でも動機はなんでも構わないんだが、そういうのは適切な場所に向かって言うようにしないと意味なくないすかね。クレーマーたちのバトルは地獄のツイッターで毎日見られる光景だけど、正論を凶器にして反対意見のブン殴ってる人々は本気でその問題について憂えているのだろうかな。なかにはマジで困っててブチキレてる人もおるのだろうしその怒りは尊重されるべきものだろうが、そうでなくて、あんまり関係ない外野だけど叩けるものを見つけて叩いているだけのようなのが多すぎすような気がするよね。叩きたいものを叩く暴力性のほうが恐ろしくないすかね。「我々は正しい!あいつらは間違い!間違いはブッつぶせ!正しい我々に従うべき!」という論理で戦争に向かう国家と同じではないか。
震災の物理的な復興と被災者の精神的な復興について、どちらに重きを置くべきかは大いに議論されるべきであろうにゃん。そのうえで、リンゴの発言のなかで触れられている震災のことは、オリンピックは精神的な復興につながるチャンスだからガンバローよくらいのものだと思うんだけど。物質的な復興で先にやるべきことがあると主張することは正しいけど、そうでなくて自分の意見に合わないものをブン殴ることが主になっちゃってたらそれは果たしていかほど復興につながるものか。大いに疑問なところです。復興後に「俺たちがオリンピック賛成派を叩いたから震災復興が進んだんだぜ~」みたいなことを言ってはばからない者たちがのさばるような世の中にはなってほしくないなぁ~
まぁ僕も気に入らないやつにしょっちゅうクソリプ送っているので、人のこと偉そうに言えないけどね!
「日本的」なものと「日本主義的」なものについて
政治の話をすると女の子が嫌がるので僕は極力政治については語らないポリシーを持っているのだが、当たり前のように反アベに結び付ける者たちがいるのが目障りでならない。孤立した寄る辺のない人間にとって、世の中のすべてをその理論の中で説明するイデオロギーは魅力を発するものでしょう。今日雨が降ったのも、自分の人生がうまくいかないのも全部アベのせい。そう言っていれば生きやすくなることはよくわかりますとも。同じことはなにかあればとりあえず野党が悪いとしか言えない人間にも当てはまると思うが。本当に政治批判しているならいいけど、このテのうち九割五分くらいのひとはコピペみたいなことしか言ってないでしょ、ほとんど。
これはあくまで個人の感想であり効果・効能を保証するものではありませんが、「日本的」なものと「日本主義的」なものは分けて考えられるべきだと思っている。
日本的なもの、この国の文化や環境・サブカルチャーを誇ることについてただちに悪だと言う人は滅多にいないことと思う。(他文化との摩擦や古くからの文化の現代性の是非には個別に論じられるべきものもあるだろうけど、それはまた別の問題として。いまウナギを取ったらマズいからってウナギ文化を直ちに否定するのはオカシイでしょう。ウナギは美味い。だいたいそういうことね)
我々が気を付けなければいけないのは、「日本的」なものに政治的な意図やイデオロギーが加わって「日本主義的」になることなのだろう。今回のリンゴの発言に見られる日本文化あれこれについてはあくまで「日本的な」ものの良さを開会式に取り入れる意向であると解釈すべきであり、ここに無理やりイデオロギー性を見出すことは、できなくはないカモだけど、無茶じゃね~?
雑文いたみいる、としか言えないけれど、日ごろ思っていることをリンゴきっかけでいろいろ書いてみました。できることなら、みんなで建設的な議論をしたいですね。インターネットが優しい世界になるといいな!まぁ、不可能だと思うけどね。僕はリンゴは好きでもオリンピックとか1ミリも興味ねえし。
ルーザー VS 悪徳営業電話(焼き鳥)
椎名林檎の「正しい街」を聴いて思うこと
僕がむかしフられた女の子は、福岡に住んでいた。
互いに知らぬ土地で知り合った彼女のもとへ初めて会いに行ったときも最後だったときも同じように新幹線のぞみの車内放送チャイムに合わせて「いい日旅立ち・西へ」を口ずさみ、やっとこついた博多駅の新幹線改札前で待ち合わせ、夢の天神を彷徨って、晩ごはんをごちそうしてもらうことで新幹線代と相殺ということにした。ほどほどに遊んでいるうちはよかったが、相手が自転車でホイホイ合いに行ける距離に住んでいないことに気づいたの互いにほとんど同時だった。鈍かったのだ。鈍かったということにして気づかないふりをして、互いに相手が都合の良いことを言いだすことを待っていたのだね。結局どちらも建設的なことを言いだすことがなく、さよならではなくまたねを告げたあの日の唇にはそののち何年経ってもまみえることがなかった。どこでもドアがあればよかったんだな。我々は数百年早く生まれすぎてしまったようだ。そんな若いころの虎馬のような思い出があるのもので僕はなかなか九州方面へ行きづらく、リンゴのツアーでは何度も福岡公演が催されているけれど、足が向かないのです。遠いしな。どこでもドアがあればよかったのだ。いまさら博多だろうが天神だろうがに行ったところで、なんともないのだろうよ。よもや虎馬の閃光返し(フラッシュバック)が起こってぶったおれるようなことなど、ありえないだろう。百道浜も室見川も見ていないし、あの日の天神のイメージも、いまの梅田や横浜と変わらない。いや、そのときは夢中を歩いていたから街の特徴なんて目に入っていなかっただけかもしれないし、単に僕の視力の問題かもしれない。彼女のことも、もう、輪郭と下着の色くらいしか覚えていない。卒業したらどうするの、どこへ就職するつもりなの、ときいたときに、福岡から出る気は無いと言っていて「地元が特に好きなわけでもないけれど、他の土地に出てやりたいこともないから」と、僕もやりたいことはなく、大阪から出るつもりはなかった。移住しろよまたは移住してやるよを言って、なかば傲慢な類の愛を押し付けてやれば我々の未来も大きく変わっていたのだろうが、できなかった。人は若さゆえに過ちをおかすこともあれば、若さゆえに諦めることもある。あの日飛び出すことのほうが正解だったのだろうか。わからないけど、夢も恋もなかった。
椎名林檎のアルバム「無罪モラトリアム」の一曲目を飾る「正しい街」は、印象的なドラムイントロから始まる。自分の夢のために故郷と恋人から離れていく思いを描いた詞を、焦燥を感じさせる伴奏に乗せて駆け抜ける。リンゴの歌詞を自分の過去と重ねて聴き入った人も多いのではなかろうか。かつて選んだ別れの思い出、または、かつて自分の選ばなかったことへの後悔、今となっては振り返って思い返すことしかできない過去が駆け馬の幻燈のごとく映し出される一曲だと感じる。あの日の選択が正しかったのか、考えても正解はない。それでもなにが正解だろうかとふと考えてしまう、どうしようもない寂寥感が楽曲へ込められている。込められているよね?そんな寂しい気持ちを感じることをできる現在があるのは、別れることを選んだあの人との思い出があればこそのもの。思い出に正解がないからって、悪いものではないのだ。ないのだよ。ないよね?